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武士道 一名「秘密袋」 (扶桑堂書店刊より)(転載禁止)
ボアゴベイ作 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
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武士道上編 一名「秘密袋」 涙香小史 訳
第四十二回
風雨を冒(おか)し夜を冒して、同じ酒店を覗こうとするこの二人、真にこれは何者だろう。後から来た一人は全く近在の農夫と見えるが、農夫が野菜などを籠に入れて町に来るのは普通は朝の中の事だ。夜に入ってまでもこの様に町を徘徊する筈は無い。必ず彼は世を忍ぶ身の上でそのためにあえて農夫の打扮(いでた)ちをしているのに違いない。彼は一歩一歩灯(あかり)の差す酒店の窓に寄り、首を前に突き出だして伺うと、先刻来た一人は此方(こちら)からつくづくとその姿を眺め、
「フム、この様な物騒極まる時節だから、世を忍ぶ人間が徘徊するのも無理は無い。彼も多分、何か秘密の事を企んでいる男だろう。併し待てよ、アノ肩幅が広くて体格の頑丈な有様は外の人とは思はれないが、若しや彼奴(きゃつ)では無いだろうか、と言って、彼奴は死んだ筈だ。それともアノ様な男だから、どうかして生きて居たのか。」
と呟き、
しばらくしてどうしても怪しさに我慢が出来ないと云った様に、農夫に打扮(いでた)った男の傍へそろそろと歩み寄ると、先はまだ窓を差し覗く一心で我が傍に寄る人が有るとも知らない。此方(こちら)は益々近付いて彼の横顔を眺め様とするが、彼の顔は縁の広い帽子に深く隠れて唯鼻の先だけを見ることが出来るだけ。その中に彼は窓内の様子を見ることが出来たと見え、満足の様子で立去ろうとし、初めて此方(こちら)に振り向いて、此方の人と其の顔を見合わせた。
窓から洩れる灯火(ともしび)微かながらも両人の顔を照らすと、彼方(あちら)は驚き、
彼「ヤ、ヤ、貴様、縄村中尉め。」
此方「オオ、矢張り黒兵衛、貴様か。どうも爾(そう)らしく思ったよ。」
と言う。この二人実に黒兵衛と縄村中尉であった。
異様な所で異様な対面なので、二人は互いに驚いたが、辺りに気を配らなければ成らない場合なので、農夫と打扮(いでた)った黒兵衛、先ず目配せして、中尉の手を取り、無言に引き立て行くので、何処に到るかと思う中、今の酒店からも遠くも無い或る空家に連れて入った。前に此の空家に潜(ひそ)んだ事があると見え、黒兵衛は自分の家の戸でも開く様にその角(すみ)を開き、塀の内の車置き場に身を置いて、
「サア、茲(ここ)なら雨も洩らず、人も来ない。マア、腰を掛けろ。」
と言って主(あるじ)振りである。中尉と黒兵衛とは敵同士の仲とは云え、中尉が捕虜となっていた間に勇士と勇士の心が合って、意気相許した仲となった者なので、中尉は嬉しそうに腰を卸(おろ)し、
「貴様は能(よ)く生きていたなア。」
黒「爾(そう)さ、貴様の軍が意気地が無く俺を良く殺さないから生きて居たのさ。」
縄「相変わらず口先だけは気が強いな。百姓に身を窶(やつ)してビクビクしながらヤッと生きている癖に。併しマア如何して逃れた。サプネーの包囲攻撃には無論貴様も死んだ者と思い、後で俺はそれと無く死骸を捜したが。」
黒「フム、俺の死骸でも見つけて此の通り勤王軍の勇士を射殺したと言い、恩賞に与(あずか)る種にでもする積りでか。其れは気の毒だった。俺も実は討ち死にして貴様等の手柄を増して遣りたいと思ったが、生憎手足纏(まとい)があった者だから。」
中尉は此の語を聞いて、先の日黒兵衛が陣中で常に一少女を砲車の傍(かた)へに連れて居た事を思い出し、
「フム、あの梅田嬢とか言う少女の為か。」
黒「爾(そう)うよ。サプネーが陥(おち)る時、小桜露人が俺に向い、
「貴様は梅田子爵から大事の娘を預けられて居るのだから、何としても茲(ここ)を落ち延び、梅田嬢を無難の地で養うようにして遣(や)れと云われた。俺もアノ少女が可哀想だから、負ぶったままで八時間程木の上へ登って居た。
縄「何だ勇士が木の上へ逃げ登って猿のような真似をしたのか。其の姿が見たかったなア。」
黒「俺も自分で猿の様だと思い可笑しくて堪(たま)らなかったが、ヤッと可笑しさを堪(こら)えて居ると、夜の三時頃になり、貴様の軍が退いたから、又木から下りて来たのサ。」
縄「併し五万の大兵が番している其の傍を唯一人で落ち延びたとは、剛(えら)い猿だ。人間の真似をすることが出来ただけは感心だと褒めて遣(つか)わす。併し今は何処に居るのだ。」
黒「それから俺は田舎へ帰り、残っている田地を売り飛ばし、其れを梅田嬢の養育料に当てることとし、嬢を或る農家に預け、俺だけは此の土地へ遣(や)って来たのだ。
縄「併し今アノ酒店を覗いて居た所を見ると、未だ何か秘密の目論見(もくろみ)を遣(や)っていると見えるな。」
黒「無論の事サ、俺は国王を再び位に上らせて、貴様の様な共和主義の人間を死刑に処してしまうまで、秘密の目論見は止められ無い。先ず其の手始めに此の地の牢に入れられている小桜露人(つゆんど)を救い出そうと思ってサ。」
中尉はやや驚き、
「エ、小桜露人は先日サプネーで捕らへられ此の地に送られたが、もう既に刑場の露と為った筈だ。」
黒「イヤ、彼と共に捕らわれた人達が先日から日々他の嫌疑人と共に或いは首切り台へ載せられ、或いは射的の様に射殺され、或いは大河へ沈められるけれど、彼の順番は未だ廻って来ない。其れだけは確かに俺が突き止めてある。」
縄「爾(そ)うか。未だ殺されずに居るならば聊(いささ)か望み無きに非(あら)ずだ。シタがどの牢に居る。」
黒「此の町の突き当たりに在る第十三号の獄に居る。」
中尉は思わず、
「では弥生嬢と同じ牢だ。是は奇妙だ。」
と叫んだ。
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