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武士道 一名「秘密袋」 (扶桑堂書店刊より)(転載禁止)
ボアゴベイ作 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
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武士道上編 一名「秘密袋」 涙香小史 訳
第四十九回
腕八何の計略を案じ附いて此の獄に入って来たのだろうか。兎に角彼が袋の中の秘密を、縄村中尉に依って知るのを止め、猶(なお)も弥生に寄って知ろうとの目的であることは明らかである。
弥生は角灯の光に彼の姿を認め、一旦は驚いたが、既に死を決意した上なので、今更恐れる所も無く、非常に異様なほど落ち着いて、
「この夜更けに何の御用です。」
と言う。其の言葉の静かにして力があるのは、長々の艱難に疲れ果てた身にも似ず、心の勇気未だ少しも衰えて居ない事が知られる。
弥生は更に、
「エ、何の御用です。夜の明け無いうちに私を刑場へ引き出して下さる為ですか。」
愈々(いよいよ)刑せらる時が来たのならば此の世の憂さに苦しむのも今限りと心に喜ぶ様子見える。腕八は例の優しく丁寧な言葉で、
「如何(どう)致して、私が何で貴女を刑場に引き出しましょう。袋の中の秘密を聞き、如何か貴女を助けたいと、来る度(たび)に言ったでは有りませんか。」
弥「秘密などと私の知ら無いことです。何度問うても、無益ですから、早く死刑の順番が来る様にーーー。」
腕「アア、相も変わらず強情な事を仰(おっしゃ)る。知らぬ知らぬと言った所で、其れが真に受けられるものでは無し。」
弥「では如何すれば全く知ら無い者と思い、茲(ここ)を立去って呉れますか。」
腕「如何すればと言って、爾(そ)うさ、私の問いに一々淀みなく返事が出来れば全く知ら無い者と思います。ハイ、知ら無い者とさえ認めが附けば、幾等茲(ここ)に居ても無益ですから、断念して去りますが。」
弥生は真実うるさいのに耐えられ無いので、早く問はれて早く追い払おうと思い、
「ではお問いなさい。知って居る事なら何でも返事しますから。」
腕「何でもと言って沢山は問いませんが、貴女は薔薇(しょうび)夫人から受けた秘密袋を縄村中尉に渡したと言い張りますが。」
弥「渡したのではなく、私が投げ捨てたのを、中尉が拾ったのです。」
腕「中の秘密書類を読まずに投げ捨てたと言うのですか。」
弥「爾(そ)うです。今迄幾度も爾だと言いました。読まずに捨てたから中にどの様な秘密が有るか少しも知りません。」
腕「所が中尉は保田老医の家でも言いました。自分が勤王軍の捕虜と為った時、其の軍の士官小桜露人(つゆんど)と云う者に渡したと。エ其れは貴女も聞いたでしょう。」
弥「聞きました。中尉は嘘など云う人では有りませんから全く露人に渡したには相違ないと思います。」
腕「其れから貴女と共にペントの獄を脱出(ぬけいで)て旅をする間に何か貴女へ秘密袋の話しをしませんでしたか。」
弥「そんな話しなどする場合では無かったのです。」
腕「貴女も中尉に問いませんか。」
弥「ハイ問いません。」
腕「では秘密袋は今以って小桜氏が持って居る筈ですが。」
弥「爾(そう)は思いますが、其れは私の知ら無いことです。」
腕「小桜氏は何者です。」
弥「勤王軍の副大将ーーー」
腕「イヤ其れは知っていますが、わざわざ貴女を救う為に中尉を放して帰したり、又ドール村の戦いに此の辺に弥生が居る筈だなどと云って進んで来たところを見れば、余程貴女の事を思って居るに違いない。貴女とどのような間柄です。」
弥生はは彼の時の事を思っては、数間(4、5m)の距離に近付きながら、逢いもせずに分かれた悲しみを今更の様に身に感じ、暫(しばら)くの間首を垂れたが、やがて、
「露人は幼い時から私と一緒に育てられたのです。」
腕「一緒に育てられ、其れから此の頃では言い交わした恋人ですか。」
弥生は腹立たしそうに、
「その様な事を言うなら私は答えません。私の為には兄とも父とも言ふ程の恩人ですのにーーー。」
腕「イヤ、その様に清い間を恋人などなどと疑ったのは私が悪かった。其れは兎に角、小桜氏が若し活(い)きて居るとすれば必ず袋の中の秘密を知って居る筈ですのに。其の中を読まずに保管している筈は有りませんから。」
弥「其れは如何(どう)ですか。」
腕「愈々(いよいよ)知っているとすれば茲(ここ)で貴女から小桜氏に向い私の命に拘(かか)わるから如何(どう)か其の秘密を或る人に知らせてやって下さいと説けば小桜氏は必ず貴女の請いに従いましょう。幾等其の秘密が大事でも、其れを他人に知らせる為に貴女の命が助かると知れば、貴女を助けたい一心に其の秘密を語りましょう。決して弥生の命より秘密の方が大事だとは言わ無いでしょう。」
と非常に遠回しに説得して来る。
さては彼、小桜露人が彼の秘密を知っている筈だと思い、弥生をして露人から聞き出ださせようとの心と見えた。唯弥生は露人のことを既に死んだ人と思っている為に、未だ十分には腕八の言葉の意をすら理解する事が出来なかった。
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