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武士道 一名「秘密袋」 (扶桑堂書店刊より)(転載禁止)
ボアゴベイ作 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
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武士道後編 一名「秘密袋」 涙香小史 訳
第六十九回
弥生と露人とが投げ込まれた後に、黒兵衛が引き続いて水に入ったのは、両人を救う為であることは言うまでも無い。しかしながら此方(こなた)の腕八はこの事を見て非常に驚き、若し黒兵衛が無事水面に現れて此の小舟に縋(すが)り附くことでも有ったら其の身は黒兵衛から如何(ど)の様な目に逢わされか分からない。其の身が黒兵衛を客室に入れたのは全くの詐欺であって彼を欺き殺す計略に出たものだったので、彼今頃は其のことを見破っているに相違無い。何としても逃げ去らなければ為ら無い場合と、直ちに櫓を取って此の所から漕ぎ去ろうとすると、相乗りしている縄村中尉は怪しみ咎(とが)め、
「茲(ここ)を去っては弥生嬢を助ける事が出来なくなる。」
と云う。
腕八としても弥生を助ける事の大切な事を忘れたのでは無い。しかしながら、彼は目的とする秘密袋が縄村中尉の手にあるのを知り、弥生が溺死するとも袋と共に沈むのでは無い事を知っている。茲(ここ)で何とかして中尉を欺(あざむ)き、其の身が唯弥生を助けるのに充分骨を折った様に見せ掛けさえすれば、たとえ実際に弥生を助ける事が出来なくても中尉が後で約束通り袋の秘密を示して呉れるに違いないと思った。だから彼の心には真実弥生を助けようとの考えは無く、寧(むし)ろ弥生を薔薇(ようび)夫人の財産に対する邪魔者と思っている者なので、中尉の言葉に従がおうとはせず、
「イヤ、最(もっ)と暗い所へ行かなければ外の小舟に不審に思われ、思ふ様に救う事が出来ません。それに船大工が続いて飛び込んだから、彼は用心して河下まで水を潜(くぐ)り、ずっと暗い所で無ければ決して顔を出さないでしょう。」
と、口から出任せの事を言ったが、自ら幾らかの道理に叶っている所がある。
中尉は心中に成る程一理ありと思うのと同時に、此の辺りは底瀬が非常に急である事などを思い合わせて、腕八の為す儘(まま)に任せた。」
それはさて置き、親船では黒兵衛が飛込んだのを見、非常に怪しむ者も有った。
「彼奴(きゃつ)は今の両人(ふたり)を助ける積りに違いない。」
と一人が呟(つぶや)くと、一人は、
「爾(そう)かも知れ無い。如何(どう)も只の船大工とは見えなかった。」
と云う。
ギランは之を聞き、
「いずれにしても浮かび上れば小舟にいる水遊会員が叩き殺して仕舞うから心配は無い。」
と云い、メイソンは口の中で、
「ナニ彼奴(きゃつ)は、両人が投げ込まれたのを見、絶望して自分から身を投じたのだ。」
と呟(つぶや)き、何等の調査とも成らずに終わり、之から残る囚人を投げ込み終わり、役員はいずれも他の小舟に乗り移って、其の親船が例(いつも)の如く、船底に詰め込まれた囚人と共に水底に沈むのを見届け、無事に此の夜の水遊会を終わって引き上げた。
一方水中に飛び込んだ黒兵衛は水底に達するや、幸いにして間も無く弥生の衣服に手の触るのを覚えたので、直ちに之を引き付け、露人と両人の体を抱き、足に力を籠めて川底を蹴り、水面に現れると、縄村中尉の推量と同じく、底瀬の力で早や十数間(20数m)も推し流され、篝火の照る所からやや下の方に出たので、何より先に弥生露人の結び縄を断ち切ろうとしたが、斧は水底に落として来たので断ち切る方法が無く、結び目は水に締まって愈々(いよいよ)堅くなった。それでも漸(ようや)くにして解くことが出来たので、
「モシ露人(つゆんど)様、弥生様」
と呼んで元気を出させると、露人だけは返事をして、
「オオ黒兵衛か、其の方が大工の姿で、船へ忍び入って居るのを見、頼もしく思って居たが、俺は船から落ちる時、足を挫(くじ)いたから泳がれ無い。俺を死なして弥生だけを助けて呉れ。」
と云う。
アア彼、思ふ事の一つも叶わ無いのに絶望し、せめてたった今、悪人の手で、偶然にも弥生と夫婦の如くに扱われたのを、此の世の名残として、弥生を助けて身は此れ限り死のうとの心と見えた。
黒「ナニ貴方をも助け弥生様をも助けて上げます。」
と云う。弥生は今迄全く気絶して居たが、此の声に初めて心附き、
「イエ、私はもう助かりません。露人さんを助けて。」
と云う。非常に術無(せつな)い声である。黒兵衛は長く問答する時では無いので、
「サア無言(だま)って弥生様は、私の右の肩へお縋(すが)りなさい。露人様は左の肩へ、ナニ私が三人前は泳ぎますよ。」
と云い、河の右の岸を指して泳ぎ始めたが、如何(いか)に三人前分泳いでも、この辺は川幅が非常に広く、岸は幾町(数百m)の先に在るのか夜目に見定めることも出来ない。唯黒兵衛は古(いにしえ)のゴール人種の血筋を引く丈あって、艱難に逢っても強情である事は他に類が無く、自分の身が死するまでも死する事を知ら無い男なので、
「ナニ是位の河を、」
と云い勇気を集めて河の瀬と闘い始めたが、遠く上手に篝火が近づくのを見ては舟に乗っている人を羨ましがらない訳には行かず、
「アア舟と云えば縄村中尉が舟に乗って居る筈だ。併し迂闊に舟を呼べば悪人等の舟にも怪しまれる。中尉の舟には腕八も乗って居る筈だ。彼奴(きゃつ)めケビンへ入れて、俺を助けると言い、その実は賄賂だけ取って俺を殺す積りで有った。此の恨みを晴らすの丈(だけ)にも早く陸まで泳ぎ着き度い。エエ」と云い、
泳いでは、又泳いだが、両肩に取り縋(すがる露人弥生に身は益々重く、時には流されてしまいそうに為り、片手は代わりがわりに両人を抱かなければならない場合さえ有るので、筋鉄(すじがね)の如き彼の腕も次第に疲れ、やがては身の重みに水の底へ引き込まれる様な心地と成り、
「エエ、残念だ。残念だ。」
っと口走ったが、最早(もはや)如何(どう)する事も出来ない。或いは闇の川面のどの辺に中尉の舟が有るかも分からない、若し意外に近い辺りに在って、互いに黒暗の中で空しく行き違うなどの事があっては、何と言っても悔しい限りだと思う心から、かって人の助けを呼んだ事の無い口で、
「助けて呉れ、助けて呉れ」
と叫ぶに至った。
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