巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

busidou78

武士道 一名「秘密袋」   (扶桑堂書店刊より)(転載禁止)

ボアゴベイ作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2014.3.5

下の文字サイズの大をクリックして大きい文字にしてお読みください

文字サイズ:

更に大きくしたい時はインターネットエクスプローラーのメニューの「ページ(p)」をクリックし「拡大」をクリックしてお好みの大きさにしてお読みください。(画面設定が1024×768の時、拡大率125%が見やすい)

busidou

 武士道後編 一名「秘密袋」             涙香小史 訳

               第七十八回

 大金の在処(ありか)は唯浦岸老人だけが知っている事と分かったので一同が指して行く方は、老人の住んでいる緑の湖畔であることは勿論である。
 そうは定まったけれど、縄村中尉も黒兵衛も昨夜から微睡(まどろ)む暇も無く、軍人の常として幾昼夜眠らずに身を労した事は幾度も有って、それ程まで辛いとも思わないとは言え、昨夜来黒兵衛の働きは戦場にも多く例に無い程で、中尉の方も心労は大兵を指揮するにも勝っていた。

 茲(ここ)で幾時間か眠り、大いに心気を爽やかにしなければ、剣の刃を渡る様な此の後の難場を漕ぎ抜くことは難しい。特に此の先に当たるドンヂ村には未だ捜索騎隊が宿泊している。其れを遣(や)り過ごした後でなくてはこの所を動くのは難しい。それなので兎も角も一休みする事に決し、皆牧場の番小屋に入り眠ったが、日暮れになって漸(ようや)く目を覚ますと、幸ひに捜索隊は昼過ぎに次の駅を指して立ったと言う事なので、やや安心して、日は暮れたが落人同様の身の上なので、夜道を行くと決めて出発する事にした。

 夜道とは言え、本道を進んで捜索兵の後を追って行っては、此の後駅々で追い付く恐れがある。是は丁度網に身を投ずる様な者なので、其の度に行を止めて捜索隊の出発を待たなければなら無い。その様な愚かな事をするべきでは無いと、ドンヂの少し手前から山手の間道に分け入ったが、樵夫(きこり)の外は通(かよ)わない所で、唯黒兵衛が当て推量で案内するだけなので、困難なこと事は言い様も無かった。時には馬に乗ったままでは通れない所も有り、其の度に一同徒歩と為り、自ずから馬の口を取って行く程だったので、苦労の割には進みは遅く、夜の明ける頃僅(わず)かに山一峰越えただけだった。

 此の後の路も略(ほ)ぼ同じ程の困難だったが、所々に人家があった為、人も馬も食うだけの事は困らず、殆(ほとん)ど命に障(さわ)りが無いのを幸いとして進む程の有様だったが、其の間にも特に心配なのは弥生の身であった。

 弥生は勤王軍に身を投じて以来、か弱い身を以って男子も耐える事が出来ない程の困難に耐え、身体の力は殆(ほとん)ど枯れ尽くして居たので、唯心一つで支えて来たが、獄に下ってからは絶望の中に日を送り、其の果てが大川の溺刑で、漸(ようや)く黒兵衛の為に救い上げられたとは言え、多く水も飲み、兄の様に思う露人をさえ失い、其の後まだ身を保養する場も得て居ないので、永い疲れが一時に現れ出したと見え、馬に乗って居ても左右の景色など見ようともせず、只(ただ)首を垂れて、昏々と塞ぎ込む様子で、今迄の凛々(りり)しかった少女とは別の人の様なので、この様な事に無神経な黒兵衛でさえ、窃(ひそ)かに心を痛め、時々腹の中で、

 「アア嬢様は何だってこの様に陰気に為ったのだろう。露人様を失ったから気落がして其の事をばかり考えて居られるのか、夫(それ)ともーーー、イヤ夫とも露人様が言った通り縄村中尉に心を寄せ、敵味方に生まれたので、どうせ遂げられ無い縁と知り、この世を果かなく思って居られるのか。せめて中尉の傍へ遣り、馬を並べて歩ませれば幾等か気の晴れる事も有るだろう。」

などと呟(つぶや)き、殊更(ことさら)に弥生の馬を中尉の馬に並ばせたが、弥生は今迄の旅では中尉と相乗りして一つの馬にさえ乗り、隔(へだ)ても無く語らって居たのに相違して、恥らうような様子が有り、口も開か無い。

 中尉も又、先に露人の臨終(いまは)の言葉を聞いてからは、その身が弥生に愛せられていると知った為だろうか、以前の様に親しく弥生に接する事が出来ない。何と無く気兼ね勝ちに見えるのは、是其の心に愛の情が無い為であろうか。否否中尉の心は弥生の心と異なる事は無く、今迄弥生の健気な振る舞いを見、勇気と云い、忍耐と云い、世にも稀な女である事を知り、其の心が其の容貌と共に美しいのを深く感じただけでなく、何度も共々に死生の境を辿った事なので、どうして弥生に心が動か無いで居る事が出来ようか。

 厳しい軍人とは言え、年未(ま)だ二十五を多くは過ぎず、特に信義の念と友愛の情とは、人よりも強い質(たち)なので弥生に対する友情が、既に知らず知らずに愛情と為り、身を焦がす思いは有るが、唯だ露人の最後の一言で深く前後の事情を察し、我が心よりも露人の心が更に切実である事を知ったのだ。露人が舟の小舷(こべり)で黒兵衛の肩に縋(すが)り、

 「弥生の心を察し、妻として弥生を保護せられよ。」
と云い、一語を名残に水底に沈み去ったのは、生きて我が身と弥生との間を邪魔しないとの心であるのは確実だ。彼に是だけの義心が有り、我れが其の心を察せずに、直ちに弥生を我が物の様に思って好いだろうか。
 露人が水底に沈んだとは言え、其の生死は確かには分からず、或いは如何なる事か有って、川下で助かっているかも知れ無い。

 其の生死が明らかに定まるまでは、我が心を弥生に動かす可(べ)きでは無い。又弥生をして我に心を動かさせる可(べ)きでも無いと、深く胸中に決めて居る為め、弥生に親しみもせず、疎(うと)みもしない。
 自ずから言葉少なと為って、互いに並べた馬が何時の間にか遠ざかるばかり。



次(第七十九)へ

a:755 t:2 y:1

powered by Quick Homepage Maker 5.1
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional

巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花