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武士道　一名「秘密袋」 　　（扶桑堂書店刊より）（転載禁止）

ボアゴベイ作　　黒岩涙香　翻案　　トシ　口語訳

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busidou

　 武士道後編　一名「秘密袋」　　　　　　　　　　　　　涙香小史　訳

　　　　　　　　　　　　　　　第九十二回

　此の儘（まま）浦岸老人に死なれては、今までの苦労が総て水の泡でだ。薔薇（しょうび）夫人の大金が湖水の底に在りとは分かったが、船で之を引き上げる事が出来ないとすれば、如何（どの）様にしたら引き上げることが出来るのだろう。思慮綿密な老人が用心に用心を重ねて工夫した者なので、引き上げの秘伝を聞かなければ、到底引き上げる事は出来ないだろう。

　縄村中尉は非常に気が揉（も）める様子で更に幾度か老人の名を呼び立て、其の身を揺すりなどしたが、老人は既に何の感じも無く、息が有るのか無いのかさえはっきりしない。
　到底老人の命を呼び返し、其の言い残した事を続けて語らせる見込みは無い。中尉は残念で仕方が無いので、

　「エエ、肝腎の所で命が尽きた。言うべき丈を言い尽くす暇が無いと知れば、外の事を後に残して大金の取り出しの秘伝を先に聞くので有った。外の事は少し位不明瞭でも捜索が付くけれど、是ばかりは如何（どう）仕様も無い。」
と云い、何か好工夫は無いものかと問う様に黒兵衛を顧（かえり）みると、彼もこの事には塵（ちり）ほどの知恵さえ出す事は出来ず、交叉（こまね）いた両手の中に其の首を埋めるばかり。

　この様な折りしも入り口の方に、急（いそが）しい足音がして突々（つかつか）と此の部屋へ入って来た者が二人あった。一人は彼の呂一で、一人は呂一が迎えて来た保田老医である。老医は先に勤王軍がグランビル市に迫った時、縄村中尉をも知り、弥生をも知っているばかりでなく、弥生には並々ならない同情を寄せ、老婢お律に力を合わせて弥生を助けようとした事さえ有る程だったので、弥生及び中尉等の姿を見て、少しも驚く様子は無い。

　それに委細の様子は茲（ここ）へ来るまでの間に呂一から聞いたと見え、此の場の意味を悉（ことごと）く吞み込んでいる様に、
　「オオ最（も）う老人が事切れと為ったのか。」
と云う。中尉は浮木に縋（すが）ろうとする盲亀の如く、只管（ひたすら）保田老医に縋（すが）り、

　「先生、此の老人が肝腎の事を言い残して此の有様です。如何（どう）かもう一度正気に返えらせ、たった一言、言わせる事は出来ないでしょうか。ハイ唯の一言でも好いのですが。」
　老医は騒がず、呂一に持たせて有る薬籠（くすりばこ）の中から聴器を取り出し、静かに老人の呼吸を聞き、

　「イヤ、未だ少し息が有る。到底無駄とは思うけれど、若し意外にも少しの間正気に返らせる事が出来るかも知れ無い。」
と言って、小瓶の中から何やら非常に香気（におい）の高い薬を出し、老人の口に注ぎ入れたのは、興奮の薬に違いない。薬の力が効（き）き、老人の生を返すことが出来るだろうか。

　中尉は真に一日千秋の想で老人の顔を見詰めると、暫（しばら）くして老人は、有り難や、呼吸（いき）を吹き返した。否有り難いと思われたのは少しの間で、其の呼吸は死際のしゃっくりに過ぎ無い。唯後ろへ引く息ばかりが節の様に強く聞こえて、吐（つ）く息は聞こえもしない。其の一節は一節よりも細く次第に細り行くばかり。中々言葉など発する事が出来ようとは思われ無い。

　老医は其の空しく細り行くのを見て、又も興奮剤を施したが、又其の息がやや高くはなったものの、唯高くなると言うだけの事で、再び細り行くことは前の通り、遂に三度目の興奮で全く生力が尽きた者か、其の後は興奮の力も利かなくなった。老医はは無限の憐れみを帯びた声で非常に静かに、

　「アアそれにしても先ア目出度い人だ。正直に世を送って正直にこの世を去られた。」
　中尉は聞いて狂気の様に、
　「エ、エ、最（も）うこの世を去られましたか。先生、此の老人が最（も）う世をーーー」

　「ハイ、全く最後の息が尽きました。命と云う者が消えて仕舞ったので、何（ど）の様な医者でも、何（ど）の様な薬でも仕方が有りません。是は最（も）う死骸です。」
と云い指の先で老人の目を閉じさせた。



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