巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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巌窟王

アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2011. 4.4

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史外史伝 巌窟王    涙香小子訳

百十、「恋か、恨みか」

 客一同の立ち去った後に、伯爵は時に大尉森江真太郎の住家を詳しく武之助に聞いた。武之助もよくは知らないけれど、メズレー街14番館で妹の夫と同居しているとだけは知っているから答えた。 伯爵はその番地を心に留めて更に何事か考える様子であるのは、何時訪ねて行くのが良いだろうかとの思案であるらしい。何でかの大尉がこうまで深く伯爵の気に入ったのか、武之助は大尉がこの席で伯爵に語った言葉などを繰り返して考えてみたけれど、別に他の客と異なったほどの事を言ったわけでも無く、どうしても納得が行かなかった。

 それはさておいて、武之助は前から伯爵に見せるつもりで、別室に古器物などを陳列しておいたから、二、三の雑話が住むと「どうか伯爵、私の道楽(趣味)もご覧下さい。」と言って立ち上がった。
 伯爵;「願うところです。貴方の道楽とは盆栽ですか、絵画ですか。それとも刀剣の類ですか。」

 問いながら案内されて、まだ武之助が返事しないうちにその別室へ歩み入った。伯爵は感嘆して、「イヤ、若いパリーの紳士に古器のたしなみがあるとは感心です。」と言って、端の方から見始めたが、ただ驚くほかは無いのは伯爵の眼力である。

 どの時代、どの国の品物でも、武之助が買い入れたときに商人や鑑定家などに聞いたことよりもこの伯爵の方が詳しいほどだ。ついに武之助は仕方なく、「イヤ、私などの持っているのは、どうせ貴方のお目には少しも珍しくは無いでしょうが、兎に角お目の高い方に見て頂いたのは何よりも満足です。」

 伯爵;「いいえ、そんなに珍しくない事は有りません。特に私が感心するのは一品も模造品が無い事です。イタリア辺ではどこの貴族の珍蔵中にも必ずいくつかは贋物(にせもの)が交じっておりますのに、貴方の古器物にはそれが有りません。古器物愛玩家の第一に誇るべきは決して希世の珍を沢山集めたというのではなく、偽をつかまされないということに有るのです。言い換えれば眼識が大事です。」

 武之助;「眼識ならば貴方のように、贋物のある無しを直ぐに見極める人こそ第一等の名誉です。」
 語りながら又奥に進み、一方の窓のところまで行くと、窓の明かりを程よく受ける辺の壁に、一枚の額が掛かっている。額に描いたのは年の頃二十五、六と見える美人が人待ち顔で海の方を眺めている愁いを帯びた姿である。そうして、その美人の服が他の土地には無いスペイン村の漁師の娘が着る一種の変わった仕立てである。

 伯爵はこれを見ると共にほとんど顔の色を変え、しばらく声も出なかったが、ようやく、何事かと怪しむ武之助に向かい、「これはきっと名高い女役者でしょうね。」
 武之助は少し不機嫌に「エ、女役者、これは私の母ですが。」
 伯爵は後悔に我慢できない様子で、「オヤ、貴方の母上、それはどうも失礼なことを申しました。私は又見慣れない服を着けていますので、きっと役者でもあろうかと。」

 武之助は初めて納得が行ったように、「イヤ、その服は父も非常に非難したのです。実は今から十年ほど前、父が外国に行った留守に、母が多分はその帰りを待ち兼ねる意味を写させたのでしょう。名高い画工に描かせましたが、その服だけは私も理解が出来ません。或いは母がその頃小説でも読んでその中にある女の服を取ったのではないかと思います。」

 武之助にはこの服が分からなくても、伯爵には分かりすぎるほど好く分かる。既にこの女が野西夫人という貴い身分になったのに、わざと漁師の娘であった昔の服を着て描かせたのは、心の底にまだ忘れ兼ねるところが有る為である。そうして人を待つ様子は、果たして今の人を待っているのだろうか。昔の人を待っているのだろうか。昔の人を待つ思いの、包み兼ねた心から、このような意を託したのでは無いだろうか。

 顔の何処かは知らないが、何となく憂いに満ちて見えるのは、ただ装った色では無い。幾年月、形には嬉しさを示しても、心の底に、済まない思いがわだかまってかき消す方法も無い為に、長い年月に顔にまで自然にその愁いが刻まれる事になったのではないだろうか。
 石心鉄腸の伯爵だけれど、これを思うと一語も発すことが出来なくなった。発すれば必ず声が震えて武之助に怪しまれるのだ。これは憎しみの為だろうか。そそもそも又愛のため心の底の古傷に痛みを覚える為だろうか。嗚呼、恋か、嗚呼、恨みか、伯爵よりほかは知ることは出来ない。イヤ、伯爵自信といえども、実は知ることが出来ないかもしれない。

 武之助は言葉を継ぎ。「父が、母と衝突したのは、ただこの絵が出来た時だけです。わたしが知ってから今日が日まで、この他には一度でも争った事があったためしは有りません。貴族社会でも中の良い夫婦といえば必ず私の父母が引き合いに出されます。けれど、この時ばかりは父が不機嫌な色を示し、このような絵は焼いてしまえと言いました。勿論焼き捨てることは出来ませんから、わたしにくれ、わたしがここに掛けたのですが、このようなわけですので、父の画像と並べずに母の絵姿ばかり孤独に掛かり、貴方に女役者かと怪しまれることになったのです。」

 説明がようやく終わる折りしも、この部屋に通じている一方の廊下の方から人の足音が聞こえて来た。
 武之助;「アア、貴方にお礼を言うために父があそこに参りました。」

第百十終わり
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