巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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巌窟王

アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2011. 4.5

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史外史伝 巌窟王    涙香小子訳

百十一、「子爵夫人露子」

 もとより武之助の父にも母にも会う覚悟で来たのだから、その父の足音を聞いたからと言って驚くはずは無い。その通り、驚くはずは無いけれど、伯爵は驚いた。
 今まで窓の明かりが自分の顔へ差すように立っていたけれど、急に後ろへ差すような位置に振り向いた。なるべく自分の顔を影にするように立ち直したのだ。そうとは武之助は気が付かなかったけれど、後で思い当たる時があった。

 やがて父野西子爵は近づいて伯爵と全く顔を合わせて立った。伯爵の顔は暗いけれど、子爵の顔には、窓の明かりが満面に映っている。アア、この人が二十余年前地中海岸の漁村スペイン村で次郎と言われたいやしい者だろうか。鼻は高く口は締まり、眼にも一種の威光を輝かせているのは、どうしても生まれながらの貴族である。誰がこの人を漁師の息子と思うだろう。

 伯爵は地位の為に人の容貌がここまで変わるものかと驚いた。けれど、次郎は次郎である。一目見たときには余ほど違ったように見えたけれど、見るに従い、今もってほとんど一日も忘れる暇の無いほどに伯爵の目に焼き付いている昔の容貌が現れてくる。なるほど自分と言う念の非常に強い顔付きである。

 ただ自分の欲のためには人をどの様な目に合わせてもいとわないという恐ろしい気合が、滑らかな皮の下に潜んでいるように思われるのは、伯爵の気のせいばかりでは無い。年は伯爵よりいくつか上で有ったから四十はとっくに超えているが、頭にも霜を置いて五十を超えた人のように見える。これも心の底のどこかに自ら咎め自ら恐れて、絶えず安心の出来ないところがあるため、年よりも老けたものに違いない。

 少しの間に伯爵は様々な事を見て取ったけれど、子爵のほうは伯爵の姿に対して何の感じもなく、ただ我が子の恩人と思うだけの一心である。「アア、巌窟島伯爵、仔細は武之助から聞いてよく存じています。貴方には御礼を申さなければならないことばかりで、どうにかしてその機会を得たいと思っていましたが、今日はお訪ねくださりまして、本懐の至りです。」

 言葉までも確かに貴族になっている。伯爵は静かな声で、「イヤ、丁重なお言葉には痛み入ります。貴方の軍人としての名誉は、私のごとき他国の民とても聞き及ばないものは無く、一度は面会の栄を得たいと思っていましたが、この頃又伺えば更に政治の世界にも御出陣で、特に貴族院議員として一方ならずお骨折りの由に聞きます。政治に対して寸功も無い私のごとき怠け者から見れば、国家のためにこのように忠勤を尽くされることには尊敬するばかりです。」

 多分この言葉は前から伯爵が、考え定めておいたところだろうが、国家に忠勤と言う一句がことのほか子爵の虚栄心を喜ばせた。今まで初対面の人にはかって示した事の無いほどの笑顔となり、「サア、どうかくつろいでください。」と言って、伯爵に椅子を与え、自分も腰を下ろして、非常に打ち解けた態度となり、打ち解けた話に移ったが、この時、子爵が来たと同じ方向の廊下から、静々と歩み来て、この部屋に入り口に近づいたのは子爵夫人露子である。

 夫人は非常にしとやかに、何の足音も立てなかったため、誰も夫人が入り口に近づいた事を知らず、ますます話しに深入りするばかりであったが、夫人がまず入り口から半身を出し、静かにこちらの様子を見たが、多分は我が子武之助の命の親と言い、武之助が褒めて止まない巌窟島伯爵とはどの様な人だろうと怪しんだのだろう。怪しんだ為に、いつもの様に歩み入るのをためらったのであろう。

 半身を出してこちらを見、良くは見えない伯爵の顔を、なんと思ったのか、ほとんど驚き叫ぼうとするほどの様子であった。全く二足、三足、よろめいて元の廊下に引き下がった。そうして胸に手を当てたのは動悸を押し鎮める為であろう。しばらくして顔に怪しみの色を浮かべ、又進み出た。

 進み出たのはしっかりと見届ける為と見える。そうして再びこちらに出した顔は、この世の人とは思えないほど青ざめていた。そればかりでは無い。足に身を支える力さえなくなったものか、両手で入り口の柱につかまり切なそうに息をしながら透かすようにして伯爵の暗い顔を眺めていたが、やがて口の中で、「そうでは無い。そうではない。そうであるはずが無いのだ。」と呟き、自らその身を引き立てて、こちらに歩み入ろうとしたけれど、まだつかまったその柱を放すことが出来ない。

 こちらではそうとも知らない伯爵と子爵、話も段々進み、「どうか伯爵、私の妻にも親しくお礼を申させて下さるように。」
 伯爵;「今日は夫人にまでお目にかかるつもりでは有りませんでしたけれど、折角ですからお目通りを致して置きましょう。」
 
 ああ、伯爵は、最早自分の気が十分に落ち着いたから、夫人に会っても差しつかえは無いと思い定めたと見える。そうして、更に自分の目を慣らせておくつもりのように壁に掛かったあの絵姿を見上げたが、この時一方に座っていた武之助は驚いたように、入り口に向かって立ち、「オヤ、おっかさん、貴方のお顔色の悪いことは。まあ、どうなさったのです。」と気遣わしそうに叫んだ。伯爵も子爵もこの語に入り口の方に一様に顔を振り向いた。

第百十一終わり
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