gankutu114
巌窟王
アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
since 2011. 4.8
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史外史伝 巌窟王 涙香小子訳
百十四、「古い秘密が」
米良田伯爵と言い、蛭峰検事補と言う名は、勿論伯爵が初めて聞く名ではないのだ。今伯爵の買い取ろうとするその家が、この二人の名に縁が有るとは、偶然の事だろうか、それとも実はこの名に縁の有るところを見込んで、伯爵が買うことになったのだろうか。
伯爵の気質を知る人は決して判断に苦しまない。伯爵のする事に、偶然から出た事柄は一つも無い。ナニから何まで、深く考え、遠くおもんぱかって、偶然らしく見える様に仕向けて、後に実行するのである。何で伯爵が偶然に蛭峰に関係のある家を買うものか。偶然に買った家が偶然蛭峰に関係があるなどと、世間の事はそう上手く行くものではない。何年もの苦心の結果、今ようやくこのような家も手に入る機会が巡って来たのだ。
ただ、春田路が非常にこの家があるオーチウェルの土地を恐れる様子のあるのは何故だろう。これも偶然ではないのだろうか。春田路が何者かと言う事が分かる時には、それも自然に分かるだろう。
まもなく春田路は伯爵の命じた通り五万五千円(現在の3億8千5百万円)の金を何枚かの銀行券で持って来た。伯爵は直ぐにこれを公証人に払い渡し、更に公証人からその家の番人に宛てた命令書をまで得て、買取手続きを手落ちなく済ませた。
公証人が去った後に伯爵は、昼夜離さずに首に掛けてある巾着を取り出して、その中から書類を取り出して今受け取った家屋の明細と照らし合わせ、「アア、吹き上げ小路二十八番地、これに間違いは無い。」と一人満足そうに肯いた。
次に春田路を呼び、再び馬車の用意を命じておいて、その間になにやら三通ほどの手紙を書いたが、それの終わると供に又呟き「フム、春田路がニームの牢から救い出された時、俺に、イヤ暮内法師に白状したのは決して事実の全体では無い。僅かにその一部分だ。しかし、彼はコルシカ島の人間だけに迷信も深く、それに又俺に背けばどの様な目に会うかもしれないという恐れが有るから、今日は必ず白状する。何でも彼の白状とこっちの調べとが少しも食い違いが無い事を確かめた上でないと実行に着手するわけには行かない。サア、兎も角これから行こう。」
こう言って玄関を出ると、馬車の用意も出来、新たに雇ったと見え、御者も馬丁もそろっている。伯爵は送って来た春田路に向かい、「サア、その方も同乗するのだ。」
春田路は当惑気に「オーチウェルへですか。」
伯爵;「そうだ、吹上小路だ、俺の家風は家扶がその様に主人の命令に問い返すのは赦さない。ただハイとと言えば良いのだ。」厳しい言葉に低頭して伯爵と同乗した。
この時は早や日が暮れて、馬車はランプを点けている。伯爵は途中で先刻書いた三通の手紙を自分で投函したほかは、馬車の中でほとんど身動きもし無いほどに何事をか考えていた。
やがて吹き上げ小路に着くと、春田路は余ほど神経に触る事があると見え、声を震わせて、「吹き上げ小路は何番地に着けさせますか。」
伯爵;「二十八番地へ」
春田路は思わず叫んだ。「え、え、二十八番地」
伯爵;「妙に驚くが、そのほうはこの辺を良く知っているのか。」
春;「よくは知りませんけれど。」曖昧に答えたけれど伯爵は押して問い詰めもしない。
二十八番地とは、はずれである。ほとんど一軒家の形をなしている。やがて馬車が着くと伯爵は更に震えてしり込みする春田路をしかり、「サア、先に降りて俺に肩を貸さないか。」
春田路は仕方なく命に従い伯爵を助け下ろし、次にその門の戸を叩いた。中から戸を開いた番人は最早六十にも近い老人だが、伯爵の差し出した公証人の書を開き見て、「とうとうこの家が売れましたか。七年来米良田伯は御自分でこの家にお出でになったことが無く、買い手も借り手も付きませんから私はただ毎日掃除をするばかりでしたが。」
伯爵;「オオ、今までの持ち主がその様に捨てて置かれたのか。」
番人;「ハイ、米良田伯爵は蛭峰さんへ縁付けた嬢様がお亡くなりなさって以来、ご健康が優れませんので、別荘などにはただの一度も」
伯爵;「オオ、なるほど、先刻公証人からもこの持ち主の娘御が蛭峰氏に縁付いたような噂は聞いたが。全くその通りなのか。」
何だかそれとは無く念を押す様子である。
番人;「蛭峰さんはご存知の通り今では大検事に出世され、二度目の奥様にお子まで出来、もう先の奥様の事はお忘れの様子ですけれど、米良田伯爵の方では忘れる暇が有りません。」と老いの繰言を繰り返している。
気永く聞き終わって、伯爵は春田路を振り返り、「サア、家のなかを見よう。ちょうちんを持って先に入れ。」
春田路はまだ震いが止まらない。「生憎提灯の用意が有りません。」
伯爵;「馬車のランプを片方外して持って行けば好いではないか。」
どうしようもない。春田路はその言葉通りににして先に立ったが、一足ごとに立ち止まるのは、幽霊にでも会いはしないかと恐れるような様子である。伯爵はこの様子を見て、「いよいよこの家に蛭峰の古い秘密が葬られてあるわ。」と口の中で呟き、声に出しては「サア、早く二階に上がって見ろ。」と促した。
第百十四終わり
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