gankutu123
巌窟王
アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
since 2011. 4.17
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史外史伝 巌窟王 涙香小子訳
百二十三、「その様な僅かな金高」
若し世に無限の財産を持った人が現れたとすれば、誰でも驚かずにはいられない。巌窟島伯爵が即ちその人なのだ。伯爵は段倉銀行に対して「無限」の保証状を持っている上に、段倉銀行よりよりも老舗として知られているラヒット銀行へ、ロンドンの有名なベヤリング銀行から出した同じ保証状、およびオーストリーのエルスタインから世界一の富豪ロスチャイルドの銀行に宛てた同じ保障状を持っている。
「無限」の金額ならば一枚で沢山なのに、それを三枚持っているのは何故だろう。つまり一銀行では到底無限の責任を負いきれないから仏国第一流の三銀行を相手としたのだろう。三銀行が十銀行であっても実は「無限」の責任を負う力は無いと言っても好い。
誰でも驚くところなのに、まして金銭の外に貴い物を知らない段倉に取ってはこれほど驚くべきことは無い。彼は今朝伯爵の家を訪い、面会を拒絶せられて以来、ただ「無限信用」と言う「無限」の意味ばかりを考えていた。そのところに伯爵の方から訪ねて来たのだ。
伯爵と段倉の対面とは、先ず異常な事である。伯爵の心の中にはきっと熱湯の煮えくり返るような激しい思いが動いているだろうが、上辺だけはどう見ても穏やかな初対面である。真に熱湯の煮えくり返るような場合はこの後に別に有る事と伯爵は思っているらしい。
やがて、伯爵が応接所に通され、壁にある額を見ているところに段倉が入って来た。勿論、恭しく挨拶して顔を対して着席したが、段倉は何となく自分の位置がこの人より下っているという感じがした。今まで人に対してその様な感じを抱いたことは無く、いつも人を一飲みにしてかかる癖だけれど、この伯爵には飲み込む事が出来ないところがあって、反対に自分の身が、何だか太陽の前に出た蛍火のような気持ちになった。
先ず挨拶が済んだ後で、何んと言えば好いだろうかと、それさえ考えに余るうち、伯爵の方から、軽く、「勿論、富村銀行から、通知は受け取ったでしょうね。」と聞いた。
段倉;「ハイ、受け取りはしましたが、どうもその意味が良く分かりませんので。」
伯爵;「ハテな、どこが分かりませんか。」
段倉;「無限の信用と言う事が。」
伯爵は彼が怪しむのを怪しむように、「私は幾ら金を使うか分かりませんので、いつも取引銀行から無限の信用を得て置くのが癖ですが。」
段倉;「エ、癖、それでも銀行の資本には限りが有りまして。」
伯爵;「イヤ、勿論資本には限りが有るでしょう。貴方の段倉銀行の資本には限りが有っても段倉銀行の信用は無限でしょう。貴方が自分の信用をもって取引すれば、幾らまでの取引が出来るか、それはご自分には分からないでしょう。」
段倉;「それはそうです。」
伯爵;「ですから貴方自身に有る限りの信用を、私に加えればそれでよろしいのです。しかし、貴方の銀行の資力が到底私の無限の信用に応じる事が出来ないと仰るならばーーーー。」
一銀行の資力を挙げて、一個人の力に及ばないはずがあるはずは無い、段倉はわが銀行の名誉を疑われたような気になり、ほとんど憤然として、「イヤ、私の銀行にそのような資力が有るか無いかの問題では有りません。失礼ですが、貴方の身にーーー。」
伯爵は静かに笑い、「サア、私の身に無限の信用が置かれるか否かが分からないから富村銀行が保証状を作っているのではありませんか。」
こういわれて返す言葉が無い。「なるほど、そうでは有りますけれど、大凡のところはどれ程です。なるほど富村銀行のような最確実な銀行の指定ですから、五十万円でも、よしんば百万円でも貴方のお名前に対して支払いますが。」
伯爵は今度は声を放って笑った。「五十万円や百万円、その様な僅かな金高のために何で無限などと大げさな語を用いましょう。百万円ならば私は一寸外出するにも持ち合わせていない時は有りません。」と言ってポケットからラヒット銀行の五十万円の手形二枚を出し、ちり紙でも扱うようにテーブルの上に置いた。ラヒットは段倉がいつも競争を向ける銀行である。
「オオ、この銀行とも貴方はお取り引きがお有りですか。」
伯爵;「ハイ、折角パリーに来ましたから、少しは金を使ってみたいと思い、財産のいくらかをこのパリーに集める事にしています。」と言葉とともに又も二枚の保証状を取り出した。
段倉は息もつけないほどに驚き、「ヤ、ヤ、私共に来たのと同じ無限の信用状を。一通はラヒットへ英国から、一通はロスチャイルドへオーストリーから、」
伯爵;「ハイ、まだトルコからも、カイロからも同じようなのがそれぞれの取引銀行には来るはずです。」
最早や段倉は何にも言えない。深い、深い、感嘆の息を洩らして伯爵の顔を神の顔かとも仰ぎ見るのである。
第百二十三終わり
次(百二十四)
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