巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

gankutu125

巌窟王

アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2011. 4.19

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史外史伝 巌窟王    涙香小子訳

百二十五、「大手腕」

 昨日はただ一度の訪問で、子爵野西次郎の家へ、何時でも上がれる「許しの客」となり、今日もただ一度の訪問で段倉(だんぐら)家の「許しの客」となった。本当に巌窟島(いわやじま)伯爵の手際は人間業とは思われないほどであるが、実は限りない金力と限りない苦心との結果であるのに他ならない。あの美しい栃色の馬車馬にダイヤモンドの飾り物を添えて返したことなども、ただ馬鹿げた贅沢とのみ見えるけれど、実はどの様な深い苦心がこもっているのかも分からない。

 この翌日の夕方である、伯爵はあのオーチウルにある吹上小路の別荘に行き、人待ち顔に時計ばかり眺めていたが、やがて黒人アリーを呼び、「お前はアフリカで虎狩り、ライオン狩までもして、長い縄の罠を、走っている獣の足に投げるのが上手いと言うが、気が違って出鱈目に走る馬をも同じ手段で引き止めることが出来るか。」

 アリーは肩をそびやかして、「馬などは相手に足りません。」と言うような身振りを示した。
 伯爵;「それでは、お前に厳重に命じることがある。今からこの家の門を出て見張っていろ。間もなくパリーの方から二頭の馬が馬車を引き、狂気のように走って来るから、その馬を罠をもって即座に引き止めてくれ。馬は昨朝俺が馬車に着けたあの栃色の一対だから、見違えのない様に。」

 アリーは嬉しそうにポケットを叩き、「ここに罠が入っています。」との意を表し門前に出た。実に彼にとってはこの罠が唯一の護身である。勿論初めてこの国へ来たので、肌身離さず持っているのだ。このようにして彼が凡そ半時間も待ち、少し待ちかねて、煙草を燻らせ始めた頃、はるかに離れたところから、婦人の泣き叫ぶ声とともに、荒々しい馬蹄の音が聞こえ、いつもは静かな町の様子が急に騒々しくなった。騒々しいのは、「あれよ、あれと」と慌てて逃げ惑う往来の人の声で、泣き叫ぶのは、馬車の中の婦人が助けを呼ぶのである。

 真にまっしぐらとはこの事だろう。栃色の駿馬二匹、身に車が着いている事をも忘れた状態で、風を切って駆けてくる。必死にこれを止めようとする御者の手綱は早や切れて、御者その人は何処かで既に投げ落とされたものと見え、御者台が空である。中の婦人は八、九歳の男の子をしっかりと抱いていて、馬車の天井に付いたり、地に着いたり、まるでこづきまわされるように箱の中で躍っている。

 これ程の難儀、これ程の危険がまたと有るだろうか。もしこの馬が、向うに見える道の曲がり角に行けば、馬車は必ず粉微塵となる。中の人はどの様な大怪我をする事やら、思いやるのさえ恐ろしい。
 道行く人の中には、どうか、遮(さえぎ)り止める工夫はないかと、空しく気を揉む人も初めはあったが、今は皆絶望して、ただあえぎあえぎ馬車の後を追うだけである。この様子を待ち、こう見た黒人アリーは、口にくわえた巻きタバコを投げ捨てると、見る間に早や投げ罠を取り出して身構えた。この時遅く、かの時早しである。

 馬が我が前に来たと同時にひょうと投げかけた手練は狙い通り、自分より向こう側の馬の前足を斜めに縛って、手前の馬の後ろ足を余っている縄に遮ってまた躓かせた。そうして自分は力足らずして引き倒され、凡そ十間(18m)も大地を引きずられたけれど、縄は離さない。引かれるのに従って、ますます締まる罠の力に、先の馬はついに倒れ、手前の馬はこれに邪魔されて足を止めた。後から追って来る気をもむ人の口々から、「しめた、しめた。」との喝采が町中に響き渡った。   

 馬車の中の婦人と子供は気絶したままで、伯爵の手に抱き起こされ、別荘の玄関脇にある一室へ横たえられた。しかし婦人は直ぐに目を開き、「アア、有り難い。今の黒人は何処の人です。何処の人です。全く私共の命の親―――」伯爵は労わって、「イヤ、少しも黒人に感謝なさることは有りません。彼は私の奴隷です。」

 婦人の心中には、恐れと、安心とがまだ闘っている。「本当に怖かった。いいえ、もうこりごり致しましたよ。段倉男爵の家の栃色が余り名高いものだから、どの様な歩みぶりか乗ってみたいと思い、私は夫人張子さんに頼んで借り受け、町々を乗り回していましたところ、公園の門で、何物にかでもおびえたか、急に走り始めまして。

 伯爵は驚いた様子で、「オオ、段倉家の栃色ですか。それでは私がこの災難の元を作ったようなものです。実は昨朝、それとも知らずに栃色を買い入れまして、午後になって段倉男爵夫人の秘蔵の馬だったと分かりましたので、直ぐに返上いたしましたが、もしその時返上さえしなければ、貴方をこのようなことにお会わせさせずに済むところでしたのに。」

 婦人はこの言葉を聞いて跳ね起きた。「オオ、その話は昨夜も今朝も張子さんに聞きました。それでは貴方がアノ巌窟島伯爵とやらでいらっしゃいますか。」
 伯爵;「ハイ、巌窟島友久です。婦人は真実に有り難さを感じた様子で、「貴方にこのように救われたのは私の名誉です。このお礼は、私の夫、大検事蛭峰重輔から申させます。重輔が必ずお宅へ上がることに致します。」
 さては、マルセイユの検事補であった、蛭峰重輔、ヴエンデタのために春田路に殺されたと見えた蛭峰重輔、まだ生きていて、今はパリー-の大検事になっているのだ。

 大検事と言えばほとんど人を生殺する国家の権利を託されたようなもの。次郎や段倉に比べて決して劣る出世では無い。彼がこのように出世したとは、読者の始めて知った事だけれど、、巌窟島伯爵にとっては勿論初めてでは無い。十年以来彼の所業は次郎、段倉の所行と供にほとんど、伯爵の目を離れなかったのだ。

 昨日伯爵が栃色を段倉夫人に返したなども。実は夫人の言葉の中にその馬を蛭峰夫人に貸すとの一語が有ったためである。今更では無いが、少しの機会も逃さずに全ての事を偶然のように仕向けて行く伯爵の大手腕はこの一事にも現れている。

第百二十五終わり
次(百二十六)

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