巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

gankutu127

巌窟王

アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2011. 4.21

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史外史伝 巌窟王    涙香小子訳

百二十七、「世界の人」

 巌窟島(いわやじま)伯爵が蛭峰夫人とその子重吉とを助けたことは、パリー中の大評判となった。勿論、馬車の馬がものに驚いて狂奔する例は幾らでもある。けれど突然黒人が手に投げ縄を持って現れ、アフリカの内地でライオンを狩るような手際でその荒れ馬を引き止めるなどの例はそう多くは無い。ましてその黒人は、既に社交界の一部分を驚かせた巌窟島(いわやじま)伯爵の奴隷であって、狂奔したその馬は第一流の銀行家の持ち物、助けられたその人は朝廷からも民間からも非常に尊敬されている大検事の妻子である。真に3拍子も4拍子もそろったほどの珍しい出来事だもの、いたるところの評判とならずに止むはずが無い。

 直ぐに蛭峰夫人から段倉夫人に出来事を事細かに書いた手紙が来た。中には伯爵をば親子二人の命の親と記し、この後どうかしばしば伯爵にお目にかかることが出来るように取り計らってくれなどの依頼をも書き添えてある。そうしてこの二人の口と筆から益々社交界にもひろがった。

 この翌日である。大検事蛭峰重輔は妻と子の助けられた礼のために、わざわざエリシー街にある伯爵の邸を訪ねた。そもそもこの人は職業が職業だけに、余り素性の知れない人には交わらず、少しも犯罪に関係の無いと見極めの付く朝廷の人や貴族や、その他尊敬の高い人だけを限って友としているので、この人から訪問されるのは、立派な鑑定状を付けられたようなものである。

 それを思えば伯爵も余ほど有り難く感じなければならないはずだが、しかし、伯爵はそれよりも、この人に会う道が意外に早く開けたのを喜ぶだろう。この人が取り次ぎの者に案内せられ、客間に入って来た時、伯爵はその片隅に地図を開いて調べていたが、この人の足音と共に立ち、何気なく迎えた。けれど、その何気なく迎えるには余ほど自分の心を押し沈めての上だったらしい。

 言葉は先ず蛭峰の口から出た。初対面の挨拶、今日の来意、そうして妻子が助けられたのを謝することなど、全て心情を吐露するには余り綺麗すぎる語句の中に、余り気の無い真実の情が見えた。誰であっても、自分の子の命を救ってくれた人に、真実の有り難さを感じないわけには行か無い。これ等の言葉の続く間、伯爵は異様に蛭峰の顔を眺めていたが、やがて椅子を差し出し、打ち解けた態度をもって対座した。

 蛭峰は別にこれと言った話の種も無いけれど、礼だけ言って直ぐに辞し去るわけにも行か無い。それに多少はこの伯爵の身分も探りたい気が有ると見え、何か話の糸口はと部屋中を見回した末、伯爵の調べかけた地図に目を止め、「貴方は地理の学問に趣味をお持ちと見えますね。」と問い始めた。伯爵は直ぐにこの人と別れたくは無い。後々の戦いの為に一応の瀬踏みをしておかなければならない。「ハイ、私は何の学問にも相当の面白さを感じますが、しかし、地理に関係の無い学問は余り無いだろうと思います。例えば貴方のお職務とされている法律のことなどもーーー。」と水を向けた。

 蛭峰;「オヤ、貴方は法律の事までも。」
 伯爵;「ハイ、勿論貴方の様に深くは極めていなくても、その代わり広く渡っている事は、多く人に譲らないと思います。特に刑法のことに至っては古書に引見する神秘時代の事柄からエジプト、アラビア、インド、中国、日本等の法律まで調べましたが、つまるところ、法律の根本は復讐から来ています。目を抉(えぐ)られたら目を抉り返せ。歯を折られたら歯を折り返せというのが第一の主義だろうと思います。妙に熱心さを込めて言った。

 余り場合にそぐわない言葉だけれど、蛭峰は自分が法律家で、どの場合も法律を思い出す人だけに、そうは感じない。かえって、当たり前の事のように思い、「イヤ、その様な簡単なものならば法学は頭が白髪になる心配も無いのです。復讐主義は昔のことで、今は社会の安寧(あんねい)です。社会の安寧が法律の主眼です。」親切に諭(さと)すような口調である。

 伯爵は笑みを浮かべ、「なるほど、社会とか国家とか言うことも聞きますが、それは貴方がたや、又は一般の世人の如く、社会の中、国家の中に住んでいる人の事です。私の如く国家の外に住む者には、国家と言うことは有りません。」
 何という大胆な言葉だろう。蛭峰は目をむいた。「エ、エ、国家の外とは。」

 伯爵;「ハイ、国家とは広いこの世界を、窮屈に区別してここからここまでが我が国、何処からどこまでが他の国と、無理に地球を小さく割った話でしょう。それだから俺はフランス人だ。俺はイギリス人だと、それぞれ自分の分限を決めています。私にはその様な限りが無いのです。私はフランス人でもイギリス人でも、又アメリカ人でも有りません。トルコの人は私をトルコ人と思い、アラビア人は私をアラビア人と思い、私の使っている黒人は私をヌビア人だと思い、家扶春田路は私をイタリア人だと思っています。なぜなら私は地球に生まれて地球を我が郷里とする世界の人です。国の人では有りません。どの国の言葉でも自由に話し、どの国に行っても同じように楽しみ、どの国のことでも同じ様に知っています。少しも限りがないのです。遊ぶ区域にも、働く事柄にも、持っている財産にも、使う金にも決して際限を見ないのです。」

 極めて不自然なことだけれど、極めて自然に言うのだから、驚かないわけには行かない。蛭峰はため息をつき、「なるほど」と言い、しばらく考えて、「イヤ、貴方の財産には限りがないと段倉氏から聞きましたが、財産に限りが無ければ自然国家の区域なども忘れ、世界中どこでも自分の家と思うようにもなるでしょうね。してみると、貴方にはもう一つ限りの無いことがあります。それは安楽と言う事です。全く貴方は無限の安楽を得ています。」

 伯爵はいぶかるように、「エ、安楽、あなたは私を仕事の無い人間だとお思いですか。」鋭いほどに問い返した。

第百二十七終わり
次(百二十八)

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