巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

gankutu131

巌窟王

アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2011. 4.25

下の文字サイズの大をクリックして大きい文字にしてお読みください

文字サイズ:

更に大きくしたい時はインターネットエクスプローラーのメニューの「ページ(p)」をクリックし「拡大」をクリックしてお好みの大きさにしてお読みください。(画面設定が1024×768の時、拡大率125%が見やすい)

史外史伝 巌窟王    涙香小子訳

百三十一、「この財布が忘られようか」

 全く伯爵と鞆絵姫との間は、愛人かと思われるほど互いに心情が深いことは分かっているが、しかし、その関係がないことも又分かっている。だからと言って君主と奴隷との間柄でも勿論無い。何のために、どの様に結ばって居るのかは後にならなければ分からないだろう。
 これより凡そ半時間ほども伯爵は姫のそばに居て、パリーの風俗や芝居の事などを話したが、そのために自分の心も大いに和らいだと見える。

 姫に別れてここを立ち去る時は、先ほど蛭峰に別れてここに入って来た時より顔も非常に柔和に見受けられた。顔だけでなく、心もよほどやわらいだと見えて、やがて二階を下り玄関に出て、先ほど厳命して置いた馬車に乗りながらも、「アア、少しでも悪人共のことを忘れているほど心もちの好いことは無い。この上に森江真太郎にも会い、又彼の妹夫婦の睦まじい様子を見たら気が清々するだろう。今では森江のこの一家を我が肉親として愛するほかには、親しむべき家は無いのだ。」と呟いた。

 そのうちに馬車はメズレー街に着いたが、いかにも中央市街の雑踏を離れ、清い家庭のありそうなところである。特に七番館は隣に草木の茂った広い荒地があって、静かな中にも又静かである。

 少しの間伯爵は、青く常磐木の葉がかぶさった入り口に懐かしそうにたたずんだ後、やおらその中に入った。出迎いたのは、昔マルセイユで森江家の衰微の極に達した頃、会計にまで上された小遣い小暮伝助と言うものである。彼は伯爵の顔を見つめたけれど、最早や取る年とともに目も衰えたことといえ、勿論その頃の冨村銀行の代理人に似ているなど思うはずは無い。

 伯爵は益々昔ゆかしい思いをしながら我が名刺を差し出す折りしも、向こうの荒地の方から森江真太郎が飛んで来て、「オオ、珍しく馬車の音が聞こえたから、どなたかと思えば伯爵貴方で有りましたか。ご来訪下さるとは望外の幸せです。サア、どうか妹緑にもその夫江馬仁吉にもお会いください。」と言って、顔に嬉しさを溢れさせて迎えるさまは、名誉ある軍人と言うよりはまだ純情な少年と言うべきである。

 伯爵はこの言葉に、なるほどその妹が緑嬢と呼ばれた事をも思い出し、又この真太郎にも最早やしかるべき妻がなくてはなどと我が子を思うようなことをも思い、返事の言葉も簡単には出ない。
 新太郎;「本当に伯爵、高貴な貴方をお迎い申すような住いでは有りませんが、それでも妹夫婦はこの家を極楽園のように思っております。それに先日貴方のことを私から話しましたところ、富村銀行を知っている方なら、それだけのためにも是非お目にかかりたいものだと夫婦共々申しておりますから、お出でと聞けばどれ程喜ぶか分かりません。」と言いながら庭を奥へ奥へと案内した。

 間もなくとある木の陰に、白い女の服のちらりと見えるのに、新太郎は目を止めて、「アア妹があそこで子供を遊ばせています。」と言い、「緑、緑」と呼び更に、「先日話した巌窟島(いわやじま)伯爵がお出で下さった。」と知らせた。現在の緑嬢、今は早や両手に引いている男女両児の母となり、兄真太郎よりかえって年上かとも見えるけれど、浮世の濁りに染まらない清い心は、依然としてその面に現れている。

 今兄の呼んだ声に、何気なく木のこちらに現れたが、更に伯爵の来臨と聞いて、顔を赤くして、「アレ、兄さん、その様な方がお出でなら、一寸知らせてくだされば。こんな失礼な身なりを改めて来てお目にかかりますものを。」恨んでも間に合わない。

 伯爵は早や進みより、「イヤ、その様なご心配ではかえって困ります。どうか他人とせずに心置きなくお付き合いを。」緑嬢の江馬夫人は子供二人を後ろに居た女中に渡して、「幸い仁吉も家に居りますから、どうか応接室へ、いいえ、おうわさは兄から伺いまして是非とも富村銀行の事なども伺いたいと一同が申しておりますから。」

 この家に入って早や二度まで富村銀行の事を聞くとは、一家の人々がいかに恩に感じるのが深いかが分かる。間もなく応接室に通されて、第一に伯爵の目に入ったのは、暖炉の上の棚に、ただ一つの飾り物として乗せてある古い紅革(べにかわ)の財布とこれに結び付けた一粒のダイヤモンドである。

 この財布が見忘れられようか。昔船主森江氏が団友太郎の父の部屋に置き、その後船乗り新八《シンドバッド》がこれにダイヤモンドを添え緑嬢の結婚資金にと記して返したその品である。

第百三十一終わり
次(百三十二)

a:969 t:1 y:0

powered by Quick Homepage Maker 5.1
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional

巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花