巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

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gankutu139

巌窟王

アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2011. 5.3

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史外史伝 巌窟王    涙香小子訳

百三十九、「半老人」

 この手紙を得てこの青年が踊りあがって喜んだ事は勿論である。出発の旅支度が二千円、そうしてパリに着けば一年二万円の小使い、一ヶ月に二千円近くは使えるのだ。そればかりではなく侯爵の子息として、小侯爵として、社交界に引き出されるとは、このような幸福には誰でも我を忘れるまで喜ばなければならない。ましてこの青年は明日が日、イヤ今日が日の暮らしにも困り、ほとんど自殺の外は無いかとまでに絶望していたのだもの。まったく天地が覆(くつがえ)って地獄から極楽に飛び上がったようなものだ。

 あんまり好すぎる話だから、もし二千円の為替が付いていなかったら、もちろん誰かの悪戯(いたずら)と思うところだ。イヤ、為替が付いていてさえもまだこの為替が偽ではないかと疑った。しかし、恐々(おそるおそる)銀行に行って、意外にも現金を渡され時には、彼の腰の抜けないのが不思議であった。もう疑うところは無い。まったく自分は手紙に有る通りに扱われるのだ。

 手紙の出し主船乗り新八というのは誰だろう。新八にの添書の宛名巌窟島(いわやじま)伯爵とは何者だろう。そうして更に我が身の父という侯爵皮春博人とはどういう人なのだろう。分らない。実に分らない。けれどこの青年は分らないことを気にしない。又気にする余地も無いのだ。何でも手紙の指示に従って見るだけである。

 彼は自分の身が侯爵の嫡子(本妻の子)と分ったのが嬉しいよりも今の二千円が嬉しい。年二万円の小使いが嬉しい。社交界に出られるのが嬉しい。有りのまま言えば真に自分の身が侯爵の息子だとは信じていないのだ。それではあまりに話がうますぎる。自分の今までの履歴を考えて見ても、侯爵の子が五歳の時にその敵にさらわれたなどと言うことが有るはずは無い。

 けれど、先が自分を侯爵の子だと言うのだから、自分はただ「そうですか」と、侯爵の息子の積もりで居れば好いのだ。真実息子か息子でないか、その様な事をあてにするよりは、現実の旅費、小使いと現実の贅沢が有り難い。人が自分を侯爵の息子として道具に使うなら使え。自分は嘘にも侯爵の子と見られるほどの境遇に立てば、好いのだ。このような境遇は今この手紙の指図に応じるより外は、自分の生涯に又と来ることではないと、様々に思いまわした末、半ば世に言う、「儘(まま)よ《ええ、どうにでもなれ》」と言う気持ちでついにパリに出かけて行ったのは、なかなか悪賢こくて扱いにくい奴だ。

 しかしこれにも劣らない奴がもう一人いる。それは青年では無い。既に五十の坂を越えた半老人《中高年》である。これも矢張り突然に同じような手紙を受け取った。その文句は、

    御身既に五十を越え、身を支える職業も無い。有っても
   最早や職業に耐えることの出来ない老弱の境に入るのはそ
   う遠くは無い。誠に御身の前途ははかない限りではないか。
   御身もし、金に困らない栄耀栄華の身となろうとするなら、
   この書中に封入して有る私の添書をもって、本月二十六日
   夕方の六時にパリ、エリシー街三十番地にある巌窟島伯爵
   の邸に行き伯爵に会って、自分の息子小侯爵皮春永太郎に
   巡り会いたいと申し込むべし。
    御身は侯爵皮春博人である。昔御身と小品侯爵令嬢折葉
   姫との間に出来た上の永太郎が、五歳の時御身の敵に奪わ
   れて行方知れずとなったのが、今は巌窟島伯爵がその所在
   を知っている。兎も角伯爵の屋敷に行けば何事も自ずから
   分り、御身は驚くべき裕福の人となるだろう。ここに旅費
   として二千五百円の為替を封入するのをもって、これに私
   の語が偽りではないことを理解せよ。尚、巌窟島伯爵から
   御身の当座の小使いとして五万円を渡されるだろう。これ
   も御身の権利なので遠慮なく受け取るように。躊躇(ちゅ
   うちょ)してこの二度とは来ない大幸福を取り逃がさない
   ように。
                                                       暮内法師
 
 前の差出人が「船乗新八」とあって、こちらは「暮内法師」とあるが、文意において大した相違がない。これを受け取った当人同士の感じ方も又大した違いはなかった。丁度この半老人も、かの青年が考えたようなことを考えて同じくパリに出かけて行くことになった。不思議といえば不思議だが、今の心は又大概似通ったものと見える。
 *    *     *     *      *    * 
    *    *     *     *     *    
 「侯爵皮春博人閣下がお出でになりました。」と取次ぎの者が巌窟島伯爵へ言い上げたのは、丁度伯爵が武之助に向かい今夜皮春侯爵に会うのだと話したその二十六日の午後六時であった。伯爵は「そうか第一の接見室に通せ」と言って取次ぎを下がらせ、後に時計を眺めて嘲るような笑いを帯、「オオ、流石はイタリアの旧家の主だ。中々正確に時間が守れる。」と呟いたが、やがて立ち上がって右の第一接見室へ入って行った時は、今のあざ笑うような笑みは消えて、何処までも恭(うやうや)しく目上の賓客を迎える態度であった。

 「アア、貴方が皮春侯爵ですか。」との問いが伯爵の第一の言葉であった。客はぎこちない棒のように突っ立っているのは多分侯爵の威儀というものであろう。
 「ハイその通りです。」と余り高くない声で答えた。伯爵はすかさず「アア、侯爵皮春博人閣下ですね。好くは事情は知りませんけれど、前から私が親しくしているイタリアの暮内法師から貴方のお出でのことを通知してくれましたから、実は今夜お待ち受けしていたのです。」待ち受けられて安心したのか、或いは薄気味でも悪いのか、侯爵は妙にあたふたと、「アア、矢張りあの暮内法師が、成るほど、成るほど、しかし、何も、間違いや思い違いのようなことは有りますまいね。」

 伯爵;「貴方の方さえ間違いがなければ、私のほうには間違いのあるはずは有りません。貴方は勿論侯爵皮春博人君でしょう。」
 侯爵;「ハ、ハイ、侯爵です。皮春です。―――そうして博人です。」
 伯爵;「では矢張り暮内法師から昨日私のところに届いた手紙が有った通りです。五歳の時に、恨む者のために奪い去られた御子息の永太郎君に会いたいと仰るのでしょう。」
 侯爵;「ハ、ハ、ハイ、」

 伯爵;「その御子息は貴方と侯爵小品家の令嬢折葉との間に生まれたーーー」
 侯爵;「そうです。そうです。」
 伯爵;「それでは私も安心しましたが、実は妙なことである人から永太郎君を貴方に再会させることを頼まれまして、色々調べましたが、何分当人は五歳の時に分かれたので父母の顔は少しも覚えていないと言いますし。」

 侯爵は少し安心した様子で、「アア、当人が私の顔を覚えていないといいますか。」
 伯爵;「そうです。それに一説では皮春侯爵である貴方がアフリカの戦争で戦死でもしたのかその時から行方が知れず、その家も既に死に絶えたなどと言い、ほとんど絶望していましたが、暮内からの手紙で貴方が実はこの世に永らえているけれど、余り金満家として人に持て囃されるのが辛いため、世を避けているのだと分かりまして。」

 益々侯爵には都合が好い話である。彼は又一段落ち着いて、「ハイ、家柄は立派ですが、私自身はそれがために多く人に知られていないのです。」

第百三十九終わり
次(百四十)

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