gankutu153
巌窟王
アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
since 2011. 5.16
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史外史伝 巌窟王 涙香小子訳
百五十三、「荊の路、針の蓆」
全く蛭峰とその妻との馬車が着いた。客一同は玄関の方を見た。この時その馬車から出る蛭峰の顔は、先刻段倉の顔が青かったのよりもっと青い。ほとんど幽霊のように見える。アア彼は二十年目に自分の旧悪の地を踏むのだ。人は疑われない様にしようと思うだけで益々心が萎縮するのだろう。
巌窟島伯爵は、この様子を見て思った。「このような場面になると、男より女の方が余ほどずうずうしい。女はまだ顔色さえも変えずに上手くごまかしている。」女とは誰の事を言うのか読者にはほぼ見当が着いているだろう。兎も角これで客の数は揃った。蛭峰夫婦、段倉夫婦、皮春侯爵親子、砂田(いさだ)、出部嶺、森江、これに主人伯爵を合わせて十人の晩餐会である。
何しろ伯爵の催しだからきっと馳走の献立も又ずば抜けているだろうと、一同は密かに食堂の開くのを待ちながら、思い思いに或いは窓から庭を覗き、或いは打ち群れて雑談などする間に、伯爵は一寸次の間に退き、家扶春田路を呼び寄せた。そうして彼に向かい、何気ない小声で、「食堂の用意は好いのか。」
春田路;「ハイ、お客の数はお揃(おそろい)になったでしょうか。」
伯爵;「揃ったか揃わないかは自分で数えてみよ。俺を除いて九人だと言って置いたではないか。」
言葉に応じて春田路はソッと応接間を覗いたが、たちまち顔色を変えて、「アッ、あの夫人、あの夫人」と打ち驚いて身を引いた。
伯爵;「何だ、あの夫人とは、何をそのように驚くのだ。」
春田路は更に驚きが静まらない声で、「アノ非常に派手に着飾って、柱の傍に立っているあの若作りの夫人です。あれが、昔この家にいた妊娠の未亡人です。私がこの家の庭から掘り出して育てたと先日お話申しました弁太郎の母親です。」と段倉の妻を指差した。
けれど、伯爵は驚かない。十分そうと知った上でただ念のために春田路に見させたのだ。「余計な事を言わずに先ず一々数えてみよ。」春田路は再び首を出して再び驚かされた。「オヤ蛭峰もあすこに居ります。」と言い又改めて見直した上、「彼は確かに私の短剣に倒れましたのに、その後で生き返ったのでしょうか。」
伯爵;「春田路、コルシカ人のベンデタ《復讐》はあばら骨の六枚目と七枚目の間を刺すのに決まっているのに、お前は手練が足りないため、外のところを刺したのだろう。それだから彼は生き返ったのだ。それともお前が刺したと思ったのは、或いは疲れ寝の夢であったのかもしれない。サア早く数えないか。」
春田路は三度目に顔を出して数えたが最後の九人目に至り、今度はほとんど尻餅をつかないばかりに飛び下がった。「人間業では有りません。天運です。天運です。」
伯爵;「お前は何を言うのだ。」
春田路;「弁太郎、弁太郎があそこにいます。」
伯爵;「小侯爵皮春永太郎君を弁太郎などと無礼な事を言うな。客数が合っていれば早く食堂を開くように指図せよ。」
二十年前の同じ家に、同じ密夫《不倫の男》と同じ密婦《不倫の女》、しかもこの間に出来た同じ私生児の弁太郎までここに揃うとは、春田路の目に天運の循環と見えたのも無理は無い。けれど、彼は伯爵に対して犬よりも従順である。食堂を開けと言う厳かな命令に返す言葉も無く縮みこみそのまま引き下がった。
後に伯爵は再び客の間に出たが、これから五分ばかり経つと又も春田路が敷居の所に現れた。彼は必死の思いで自分の心を制していると見え、確かではあるが余韻の無い声で、「食堂が開きました。」と報じて去った。伯爵はその身自ら直ちに蛭峰夫人の手を引き、「サア、皆さん食堂へ参りましょう。」と言い、特に蛭峰に向かっては、「サア、蛭峰さん、貴方が段倉夫人の手を取ってお上げなさい。」
蛭峰は身震いしたけれど、無言でその言葉に従った。アア現在のH.N夫人、同じ密夫のその人に手を引かれて食堂に歩み入るとは、引く人、引かれる人、共にどの様な思いがするだろう。荊(いばら)の路、針の蓆(むしろ)とは、このようなものではないだろうか。
第百五十三 終わり
次(百五十四)
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