gankutu163
巌窟王
アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
since 2011. 5.27
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史外史伝 巌窟王 涙香小子訳
百六十三、「聞かせて下さい」
密婦《不倫の女》と密夫《不倫の男》との間に私生児が出来たということは、世間に例のないことではないかもしれない。けれど、その私生児は、不倫の男女の生涯の気掛かりとはなるに違いない。ましてその私生児を、生まれるやいなや人知れず裏庭に埋めるとは、これも例のないことではなくて生涯不安の種であろう。
更に不倫の男女が年を経て後に、その子を埋めたその場所に立ち、足にその土を踏まなければならないことになるとは、これを偶然の回り合わせとしても、恐ろしい限りである。又更に、もしこれが偶然の回り合わせではなくて誰かの仕業だと分かったならば、どうであろうか。それこそいても立っても居られないと言うほどの心地がするだろう。
今蛭峰大検事は、即ちこれを偶然の回り合わせではないというのだ。巌窟島(いわやじま)伯爵の故意の仕業だと言うのだ。果たして故意の仕業ならば、誰も知らないだろうと思うこの秘密を伯爵に知られていることは勿論である。そうと聞いて段倉夫人が恐れ震えるのも無理は無い。聞く夫人よりも話す蛭峰のほうが更に顔色を失うのも当たり前というべきだ。夫人は人間の声とも思われないほどの切ない声で又聞き返した。
「エエ、その証拠とは。」
蛭峰は壁に聞かれるのをさえ恐れるほどの様子で、ズッと夫人の顔に顔を寄せ、「夫人、私はこの恐ろしさを生涯自分の胸に畳み、自分一人苦しむという覚悟でしたが、今はお気の毒ながら、貴方に話さなければ成らないことに成りました。話せば貴方のこの後に一寸の間も安心と言う事がないようになりますが、それでも貴方は聞きますか。」
真に情けない場合となった。夫人は灰のように顔を白くし、「ハイ、聞き、聞きます。聞かせてください。」
蛭峰;「では言いましょう。巌窟島伯爵があの木の陰の芝生を掘ったら年月が経った赤子の死体が出たと言ったでしょう。」
夫人;「ハイ」
蛭峰;「あの言葉が嘘ですよ。偽りですよ。」
夫人;「エ、エ、何んと、それではあの子はあそこに埋めたのではないのですか。」
蛭峰;「イヤ、夫人、埋める事はあそこに埋めたのです。全く伯爵がここと足で踏んだその下に埋めたのです。けれど、伯爵が数日前に掘り出したというのは根拠の無いことです。数日前はさて置き、数年前、十数年前に、既にその死骸はあのところには無い事になっていました。」
夫人;「では貴方が改葬でもして下さったのですか。」
蛭峰はため息をついた、そうして更に考えた末、「サア、改葬したのなら、今更そうまで驚きません。が、改葬ではないのです。どうか夫人、気を確かにしてお聞きください。極の初めから話しますが。」と言って又ため息を洩らした末、
「あの赤子の生まれた時、幸い貴方のお産はそう重くは有りませんでしたけれど、その子が声も出さなければ、息もしなかったでしょう。それだから私も貴方も、死体で生まれたものと思い、」これまでは淀みも無く話して来たが、たちまち彼は声さえも喉に詰まるようにあえぎ始めた。
その理由は分かっている。決して赤子が声も呼吸も無かったわけでは無い。当たり前に活き活きとして生まれたのを、直ぐに蛭峰が自身で取り上げ、自分の手で窒息させたのだ。夫人が後産で苦しんで夢中の状態で居る間に、手早くひねり殺して声も息も出来ない事にして、そうしてようやく正気になった夫人には死体で生まれたと思わせたのだ。
そうでなければ彼、このところまで話して来て、こうまで言葉が苦しくなるはずは無い。ようやく彼は言葉を搾り出して、「直ぐに有り合わせの箱に入れて、私が自分の脇に挟み、裏庭に降りて行って埋めたでしょう。ところが埋め終わって立とうとする時、後ろに人影が現れました。それは前から私にベンデッタ《復讐》を加えるつもりで付け狙っていたコルシカ人です。
ハッと思うや否や、私は脾腹(ひばら)を刺され、人事不正になって倒れました。しばらく立って後、正気に返り、今赤子を埋めたところを見ると、土は埋め終わった時のままに成っていて、コルシカ人は早や立ち去った後でした。何しろ彼は鋭利で有名なコルシカの短剣で、そうして幼いときから稽古している特有の手練をもって刺したものですから、その割りに出血が少なく、私は傷口に手をあてたまま、どうやらこうやら身を引きずり、テラスのところまで行って、貴方の名前を呼びました。
普段なら中々聞こえる声ではなかったのですが、世間の寝静まった夜更けと言い、特に貴方が庭から私の戻るのが遅いのを気づかって、耳を澄まして様子を聞いていて下さったところですから、その声が貴方に聞こえたと見え」
夫人;「ハイ、かすかですけれど、聞き違える事が出来ない様に聞こえました。どうでも、貴方の身に大変な変事が有ったに違いないと、私は重い体を無理に起し這うようにして二階を降り、テラスまで行ってみると、貴方があのような有様なので驚きましたが、何しろ一刻も捨てて置かれず、寝込んでいる老僕を起し、貴方の怪我は全く秘密でしかも名誉ある決闘のためだと言いなし、出来ないながら及ぶだけの手当てをして夜の明けないうちにつり台《担架》に載せ」
蛭峰;「そうして私の妻の所まで送り届けて下さったのですが、もし、ことを公にして職務に障っては成らないと言う私の口実を妻はその通りと思い、それ相応の介抱の末、二ヶ月を経て私はほとんど元の体に返り、しばらく海濱へ行って養生しました。その間も絶えず私の心に掛かったのは何事でしょう。埋めた赤子の事ばかりです。」
夫人;「私とてもその通りです。」
蛭峰;「誰にも知られないなら兎も角、確かにコルシカ人に知られたに違いないから、もしも、そのコルシカ人が私の生き返った事を知ったら、自分のベンデッタの失敗を怒り、再び私に危害を初めとして、私が埋めたものを掘り出して利用するに至るかも知れない。ただそれだけが心配で仕方が有りませんでした。
それゆえ、私は体が耐えられるようになると直ぐ、海浜から帰りました。帰って聞くと貴方は段倉男爵に縁付いて居られました。それはともかく、何よりも先にあの埋めたものを掘り出し、更にコルシカ人は勿論誰も知らないところに改葬しなければならないと思い、吹上小路のあの家を目指して行きました。」
第百六十三 終わり
次(百六十四)
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