gankutu174
巌窟王
アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
since 2011. 6.7
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史外史伝 巌窟王 涙香小子訳
百七十四、「気味悪く聞こえる節」
幽霊にでも会ったように、露子夫人は一足後ろに退いたけれど、その後を聞かないではこのまま居られない。気を取り直して又進み出て、「それからその女はどうしました。」
伯爵は声の震えるのを隠そうとしてか、非常に沈んだ小声で、「ハイ、私と結婚するばかりになりましたが、降り悪くその時戦が起こり、私は軍隊に運び去られました。」
夫人;「そうして」
伯爵;「それでも戦の終わるまでその女が多分私を待っていることと思い、戦が済むと直ぐにマルタに帰って来ましたが、それは私の空頼みでした。その女は早や他人の妻になっていました。」
言いかけて余り自分の言葉を熱心過ぎると思ってか、更に伯爵は異様に打ち笑い、
「ハハハ、幾らも世間には類のある話ですよ。しかし、その頃は私もまだ年若くて、余り正直過ぎたものですから、それ切り妻帯と言う念を絶ち、とうとう今まで独身で来ましたのです。思えば愚かな話ですよ。」言い終わって又笑った。
夫人もなるべくは何気なく笑って調子を合わせたい。けれど、心にそのような余裕が無い。ただ僅かに、
「その後、貴方はその女に会う機会が有りましたか。」
と問うのがやっとであった。
伯爵;「それ切り会いません。」
夫人;「その女は今でもマルタに居るのですか。」
伯爵;「」ハイ、人の妻となって、或いは母となって、多分無事で居る事でしょう。」
夫人;「でも貴方はまだその女を恨みますか。それとも心の中でそのーー不実をーーーその罪をーーー許しておやりになりましたか。」
伯爵;「ハイ、その後、世の中を経巡って心情とはどの様なものかということを多少は知り、その女だけは許しました。」
夫人;「その女だけですか。女を貴方から引き離した人達はまだ許してはやらないのですか。」
伯爵は曖昧に、「今更恨らんだとて追いつきませんよ。」
露子夫人はこの返事を何んと悟った事か。最早伯爵の心に何の恨みも残っていないと思っただろうか。又も先ほどの葡萄を差し出し、
「伯爵、どうか一つお上がりください。」
伯爵は先ほど答えたと同じように、「イイエ、夫人、私は葡萄は食べません。」
ただ簡単な一句では有るけれど、決して恨みを忘れた人の言葉ではない。何処かに気味悪く聞こえる節(ふし)《調子》がある。夫人は絶望に耐えられないようように、口の中で、「エエ、強情にも程がある。」と呟いて、その葡萄を傍の草叢(くさむら)に投げ捨てたが、丁度ここに武之助が走って来た。このためこれ以上の問答が出来なくなった。
「お母さん、お母さん、大変な不幸が出来ましたよ。」と言うのが彼のあわただしい言葉であった。どの様な場合でも「不幸」と言う語は決して爽やかには耳に響かない。露子夫人は驚いて、「エ、不幸とは」
武之助;「今蛭峰大検事が、わざわざ夫人と華子嬢とをこの家に迎いに来ましたが。」
露子夫人;「どうして」
武之助;「何事だか知りませんが、急に変わったことが出来たと見え、大検事の顔色が真っ青でした。そして、何か夫人の耳にささやくと傍にいた華子嬢が驚いて気絶しました。パーティー会場は大騒ぎでした。もっとも直ぐに手当てして嬢は正気に返りましたので、蛭峰氏が夫人と共に馬車に乗せてもう連れ帰りましたけれど。外のお客がこれのために何だか興が醒めたようですから、それで私が貴方を捜しに来たのです。」
夫人は慌ててパーティー会場に帰った。そうして再び客の興を引き立たせようと勉めたけれど、夫人自らの心が引き立たない為か、充分には成功せずにこのパーティーは終わった。
もっとも伯爵は終わらない無い先に帰り去った。
* * * * *
この話はこれだけにして置いて、すこし長いかもしれないけれど、「蛭峰家」と題を置き、これから数回の間蛭峰の家のことを述べなければならない。
* * * * *
『蛭峰家』(一)
さても蛭峰は、どうしても伯爵の素性を見破る為に、夜が更けるまで古い書類を調べ、書き抜いた名前を「生」「死」「疑」の三点に印分けていたが、彼は又何か思い出した様に、独語した。「アア、職務の上で敵を作っただけでは無い。俺はそのほかにも敵を作った事が数々ある。もし職務上関係した人間を取り調べて分らないならば、更に秘密の方面を調べなければ成らない。」と呟いた。
秘密の方面とは言うまでもなく「恋」という曲者である。彼は世間幾多の好色家と同じく、その半生を、怪しげな、秘密の「恋」という事に委ねた男である。その頃のフランスの紳士一般の風潮としては、怪しむに足りないようなものの、それがために、思いもよらない敵を作ったことはきっと少ない数ではないだろう。その時にこそは。血気の勇に任せ、敵を作る事を恐ろしいとも思わずに居たけれど、今のように自分を恨む人の名を調べる場合となっては、区域の広いだけに益々面倒になってくるのだ。
それはさて置き、彼がつぶやき終わるところに、何者かがけたたましくドアを叩き、泣き声と共に部屋の中に入って来た。前から誰をも通さないように玄関の番を厳重にして有るのにと蛭峰は怪しみながら振り向けば、ランプの光に照らされて蛭峰の後ろに立っているのは、年七十にも近いだろうと思われる一夫人である。
蛭峰は狼狽の状態で書類を畳みながら、「オヤ、お母さん」と打ち叫んだ。
第百七十四 終わり
次(百七十五)
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