巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

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gankutu207

巌窟王

アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2011. 7.10

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史外史伝 巌窟王    涙香小子訳

二百七回、『翌日の午後』

 人間が世に立つには、ずいぶん悔しいことも恥ずかしいこともある。けれど、この委員会で、鞆絵姫に言い込められた野西子爵のような、ひどい場合は沢山はないだろう。これで全く彼の生涯は、尽きたようなものだ。最早、貴族となっている事も出来ず、陸軍中将でいることも出来ず、全く人間の中に、顔出しをすることも出来ない。

 無惨、無惨、真に無惨の極である。彼はこの後どうするか知らないけれど、夜逃げでもして、外国に落ち延びるほか、ほとんど生きている道も無いだろう。イヤ、外国に落ち延びたからと言っても、このような大恥辱が、その身に付きまわらずに居るものか。何処にこのような人が、生きていられる世界があるだろう。それも年でも若ければ兎も角、彼はもう、知らない国で艱難辛苦するという年頃ではない。何処をどう考えても、人間の世界に彼の居るべき場所は無い。

 ああ、彼は何でこのような大恥辱を受けたのであろう。自分の犯した罪悪の報いとは言え、その罪悪は総て一昔前のことで、世間が一人残らず忘れてしまった「旧悪」である。そればかりか其のことの当時ですらも、この国には誰一人知ったものが居ないはずであった。それが図らずも、今ここに巡って来て、痛く厳しく恐ろしく身に報いるとは、天意天罰としても余りに残酷だ。

 真に誰の仕業だろう。これをもし巌窟島伯爵が、復讐のために仕組んだものとすれば、充分に復讐の目的は届いたと言わなければならない。なるほど、巌窟島伯爵がこの野西子爵から、昔受けた屈辱と艱難辛苦とは、真に世に類のない類であったけれど、野西子爵の今の屈辱も、類の有る類ではない。

 もし天秤に掛けて比べてみれば、その時の苦痛においては、或いは伯爵のほうが長かっただけ、ひどいかもしれない。けれど、伯爵のほうは盛り返して来て、復讐を加えるだけの年齢は残っていた。いわば殺されてなお生き返る道があったのだ。イヤ道が有った訳ではない。到底生きてこの世に帰る道が無いのを、無理に自分で作って生き返ったようなものではあるけれど、兎も角、生きて帰った。
 兎も角再挙が出来た。

 けれど、子爵の今回の場合には、金輪際生き返るの、再挙のと言う道は無い。これだけが、双方を平均させる差し引きと言うものだろう。何にしても非常な損害にたいして、非常な復讐であったと言わなければならない。

 これで見ると野西子爵よりもなお一層罪が重く、なお一層恨みの深い、段倉と蛭峰とに対しての復讐も思いやられる。はたして伯爵の胸のうちに充分な成案があるとすれば、真にこの伯爵こそはその自ら言うとおり、この大いなる復讐のために、天の助けを得ているのだ。人間業では出来ないほどのことをするのだ。

 それはさておいて、この恐ろしい事件の知らせが、ノルマンデーにある伯爵の別荘に届いたのは、丁度委員会の翌朝であった。これは新聞記者猛田猛(たけだたけし)から、伯爵の別荘にいる野西の息子武之助に、急使をもって知らせてやったのだ。

 しかし伯爵の方はこの知らせが無くても必ずことの大体を推量して心待ちに待っていたのだろう。イヤ、この急使より外の方面から、必ず通信を得たことだろう。伯爵がノルマンデーに別荘を作り、その途中近辺に加えた一方なら無い準備から考えて見れば、確かに別な方面から通知されるだけの道は有る。何でもパリー全体のこと、イヤその身の戦っている戦場全体の事は、総て手に取るように分かっているのだ。

 全く或る人の評した通り、巌窟島伯爵が社会の暗所に戦った準備と手柄と奇運とは、ことの初めに間接ながら、少なからず関係のあったナポレオンが、国家の明所で戦った準備や手柄や奇運にも劣らないのだ。イヤむしろ勝っているのだ。

 急使に接して野西武之助が驚いたのは勿論である。彼は我父に対する売国の非難が、再び新聞に現れて、今度は貴族院が特別に委員会を開くことに決したまでを知って、直ぐにパリーに引き返す気になった。父の大事、家の大事、引き返さずには居られないと、直ぐに伯爵に其の考えを告げたところ、伯爵も驚いた様子で、直ぐに帰れと言い、帰るには遠慮なく我が早馬を使えと言い、なおしばらく考えた末、

 「イヤ、何しろ大変な事件だから、私も一緒にパリーまで帰りましょう。」
と言った。そうして武之助と一緒に馬車に乗った。
 馬車の上で八時間、ただ不思議なことは一言も伯爵が途中で武之助を慰めなかった一事である。武之助も同じく無言だ。ただパリーを見つめて、矢のように走る馬車をも、もどかしく思った。伯爵もほとんどその通りである。

 ようやくパリーに着くや否や、伯爵は本邸に、武之助は猛田猛の新聞社へと、右と左に分かれた。
 これは委員会のあった翌日の午後の四時頃であった。

第二百七回 終わり
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