gankutu230
巌窟王
アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
since 2011. 8.2
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史外史伝 巌窟王 涙香小子訳
二百三十回、『将軍と伯爵』(二)
我息子武之助が、我敵の巌窟島伯爵よりも自分の父であるこの自分を憎むべしとし、罪深い奴として、巌窟島伯爵に向けるべき剣をかえって我に向け、介添人も知人もいる決闘の場所において、決闘をしえずして、かえってこの私の身の罪を鳴らし、敵である巌窟島伯爵に謝罪するとは、真にあろう事かあるまい事か。たとえ天地がひっくり返ろうとも、これほどの逆さ事は有得ないだろう。
将軍はこれだけを言い聞かされて、その父と言う自覚にたいし、将軍と言う身分に対し、又巌窟島伯爵の敵と言う位置に対して、この上も無い大打撃を受けたように感じた。しかもこのことを巌窟島伯爵の口から聞かされるに至って、打撃に二重の力がある。誰でもこの場合に顔の張り裂けるほど怒らずにはいられようか。
将軍は猛(たけ)り狂った。将軍は地団太を踏んだ。そうして将軍は絶叫した。「エ、エ、武之助がこの私を巌窟島伯爵よりも憎むべしなどと、そうして決闘を止めて、貴方に謝罪、アア何と言う不孝な、臆病な、たわけ者だろう。」
伯爵;「臆病では有りません。非常に正直な心と、非常な勇気とを持っっていればこそ、そのような事が出来たのです。」
伯爵の言葉は将軍の耳に入らない。「イイエ、臆病です、理が非でも、既に決闘場へ臨んだ上で、決闘を止めるなどと、勇気の有る者にそのような事が出来ますか。しかも、敵に対して謝罪するなどと、しかも、自分の父の罪を認めるなどと、なぜ私の子にそのような者が出来たでしょう。なぜきゃつはここへ来ません。来れば私が、納得の行くように言い聞かせてやります。なぜ彼は父に背いてーーー。」
止めどもなく叫びたて、何処まで我が子を罵(ののし)るかもしれない。伯爵は冷淡にこれを遮(さえぎ)り、「イヤ、貴方が息子の行いを良し悪しするのは、それは一家の内所事ですから、私は聞くのを御免蒙(こうむ)りたい。いよいよ息子のした事がお気に召さないとならば、どうかお宅へ帰った後で叱るとも、懲らしめるとも御随意に。」
将軍は初めて我言葉が、腹立ち紛れに枝道に反れたことに気が付いた。「それはそうです。貴方に言われなくても息子を懲らしめることは帰宅の上で随意にします。ですがその前に、そうです、我息子を処分する前に、貴方を処分していかなければ成りません。良くお聞きなさい。巌窟島伯爵。息子が貴方と戦う事ができなかったなら、父の私がその後を引き受けます。私が貴方と戦います。確かに私は貴方と決闘する権利があります。最早この場に及んで逃げ言葉などは許しませんぞ。」
勿論許されるには及ばない。二十年来磨いた剣はただこの将軍に一撃を試みるためである。「ハイ、逃げ言葉は用いません。何も言わずにお相手いたしましょう。」伯爵の言葉は物凄いほど冷ややかである。早や気において将軍を飲んでいるのだ。勝敗の数は決していると言っても良い。
「単にお相手、フム、これは面白い。イヤ有り難い。決闘はサーベルを用います、私はそのためにサーベル二振りを従者に持たせて、馬車に乗せて来てあるのです。貴方の用意は良いのですか。」 伯爵はただ「ハイ、よろしい。」
将軍;「武器がないなどとの口実は用いさせません。二人差し違いて死ぬことに致しましょう。イヤ、昔ならばそうですが、今の決闘は少し違いますから、どちらか一方が死ぬまで闘って、止めをさして初めて終わると言うことに致しましょう。」
伯爵;「よろしい」
将軍;「場所はこの部屋で介添人は用いずに、サア、今すぐにはじめましょう。
伯爵;「勿論介添人などは邪魔になります。貴方と私とは前から何もかも知り会いの間柄ですから、何の儀式にも及びません。」
知り合った間柄との一語を殊更に押し付けて言った。
将軍;「エ、知り合った間柄、そうです。何だか私は、初めて会った時から、長く知っていたような気がしました、親しくは挨拶したけれど、何だか親しみの間に憎むべき所があって、長く長く貴方を憎んでいるように感じました、今日の決闘はどの道逃れられない運命です。私は貴方を憎むほど人を心底から憎んだことは有りません。虫が好かないと言うものでしょう。けれど、相互の身分に至って少しも知る所がないのです。」
伯爵;「イヤ、お待ちなさい、少しも知る所がないのではなく、私の方では良く知っています。ワーテルローの戦いの前の晩に脱走して敵軍の便利を計ろうとした兵卒次郎は貴方では有りませんか。その後のスペイン・フランスの戦争に、自分の生国スペインへスパイのごとく潜入しフランス軍のために案内者を務めた士官次郎は貴方では有りませんか。ヤミナの義軍に加わってヤミナを敵国に売り渡し、又も敵兵を案内して恩人有井宗隣を殺したのも確か次郎と言う男であったようです。これらの売国背恩の所行が積み重なってついに今日の陸軍中将子爵野西次郎と言う貴方の立派な履歴が出来上がったように思われます。何とこれだけ知っていれば良く知り合った間柄では有りませんか。」
静かに旧悪を数えたてて侮辱を加えるのは、ただ滑らかに決闘するのが惜しいためである。勿論通常の決闘だけで腹の癒(い)える《病気が治る》ような有り触れた恨みとは恨みが違う。
第二百三十回 終わり
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