巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

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gankutu234

巌窟王

アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2011. 8.6

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史外史伝 巌窟王    涙香小子訳

二百三十四回、『又も蛭峰家』(三)

 森江大尉が着いた時、丁度伯爵は家扶春田路から野西将軍の自殺やその妻子の落ちて行った先などを聞き取っている所であったが、森江の名を聞いて直ぐに春田路を退け、泰然と静かな顔色を持って大尉を迎え入れた。

 大尉は顔色を見てこの伯爵が、たった今野西将軍と畢生の大争いをした後とは知る由も無い。直ぐに自分が頼みの筋が有って来たことを述べ、伯爵が快く耳を傾けるのに励まされて、すっかり心配の状況を打ち明けた。ただ蛭峰家という名前だけは出さなかったけれど、最初自分がその家の主人と出入りの医師とが毒殺のことについて何か言い争いをしていたのを聞いたことから、今はその家に三人目の死人が現れようとしている様子を語り、「何とか伯爵、貴方のお力で、今死に掛けている不幸な娘を救ってやる手立ては無いでしょうか。」と訴えた。

 聞き終わって伯爵はかってこの大尉に見せたことの無いほど厳重な顔を作って、「それを救う方法は有りません。蛭峰の家にその様な不孝が続くのは、たとえ毒殺にもせよ、天罰だから。」と言い切った。

 大尉の驚きは並大抵ではない。「どうして貴方は蛭峰の家と御存知です。」
 伯爵:「パリー中を見渡して貴方の話と合致するのは蛭峰の家以外にはありませんから。」
 真にどうしてこう明らかに何から何まで見極めているのだろう。大尉があきれて二の語を継げないでいると、
 伯爵;「華子嬢が毒に死ねばその次は野々内弾正というその祖父が殺される番になるのです。」

 大尉は腹立たしいほどの調子で、「そこまで御存知なら貴方にそれを救う工夫が無くてはなりません。何だって貴方は。」
 伯爵;「ハイ、天の配剤へ横から手を出して邪魔を試みるのは愚かなことです。」
 大尉;「でも死ぬ者の身になれば、」
 伯爵;「イヤ、死ぬ者も、殺す者も、私の目から見れば軽重は有りません。殺される者を見殺しにするのが罪ならば、殺す者の目的を邪魔するのもやはり罪です。」

 あんまりな言い方である。大尉は躍起となって、「殺す者と殺される者と貴方に軽重は無いかもしれませんが、私にとっては大変な違いです。今殺されている華子嬢は私の許婚です。」
 伯爵は飛び上がらんばかりに驚いた。「エ、エ、あの華子が貴方の許婚」

 大尉;「ハイ、まだ父蛭峰には知らせては居ませんがけれど、私は命よりも華子を愛します。祖父弾正からは確かな許しを得ています。その華子が今死に掛けているのですから、それで貴方に工夫があるなら助けてくださいと願うのです。」
 伯爵は繰り返して、「あの華子が貴方の許婚、―――貴方は蛭峰重輔の娘を愛するのですか。」と問うたまま後は一語をも発せずに、大尉の顔を睨みつけた。真に大尉はこれほど威厳のある恐ろしい眼光に接したことは無い。何だか自分の身が小さくすくんでしまうように感じた。

 やがて伯爵は俄然として後悔の色を浮かべ、「アアあんまり人の災難を冷淡に見過ぎたので、天が戒めを下された。人の災難が我が身の災難とはなった。アア、森江さん、森江さん、貴方の許婚とならば、私は華子を自分の娘のように思わなければなりません。ただ、嘆いていても仕方がないことですから、救いましょう。救いましょう。ナニ森江さん、私が引き受けたから、安心なさい。こう言っている今が今、もしも華子がまだ死に切らずに居るなら決して殺しません。ハイ私が助けます。毒薬の働き方が私には良く分かっていますから、請合います。」

 どの様にして救うかは知らないけれど、大尉は深く伯爵を尊敬するだけ、この言葉に間違いはないと安心し、なお念を押して、いやがうえにも頼み込んだ。
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 それはさて置き、辻馬車に乗って有国医師を訪ねて行った蛭峰はほとんど森江と同じ状態である。彼は案内を請うのさえもどかしいと、すぐ医師の部屋に躍り入り、「大変です。三人目の死人が出かけています。」と叫んだ。

 有国医師は前から蛭峰を戒めた通り、三人にも四人にも及ぶことを予測していたほどだから、直ぐに理解して、「今度こそ蛭峰さん、貴方が大検事である役目柄から、事の起こりを公に調査しなければならないでしょう。」
 蛭峰は泣かないばかりの声で、「調査します、調査します。今度こそはーーーですが、先生、今度は貴方の推論とは違っています。倒れたのは華子です。」

 「華子のナニ」、初めて先生は驚いた。「エ、華子自身が、――アア、それでは毒害の本人を華子かと疑った私の推論は間違っていて、先ず目出度い。いやその華子が毒に逢っては目出度いことも何にも無い。それにしても調査は調査ですから、貴方は大検事という役目をお忘れないように。」と言い、更に、「もう手遅れかもかもしれませんが、さあ、直ぐ往診しましょう。」

 こう言って有国医師は、蛭峰の乗って来た辻馬車に同乗し、蛭峰の隠居所仁駆けつけて、何より先に華子の身体を診察したが、全く九死に入っているが、まだ死に切れてはいない。蛭峰はこの診断を聞いて「エ、まだ死に切れていないとは、エエ、何という心細いお言葉でしょう」と言って泣いた。追っては死に切れるとの意味が医師の言葉には籠もっているように聞こえるのだ。

 有国医師は更に華子の侍女からあの苦い砂糖水の一条などを聞き取って、益々不審の様子となり。「兎も角、感じやすい女の身で、一縷(る)《細い糸でつながっていること》だけでも死に切らずにいるのが理解できない。天佑(天佑)《天の助け》とでもいうのでしょう。何にしても手当てするのは今のうちです。」と言って手早く処方を認(したため)めて、蛭峰に渡し、「これは貴方が自分で薬剤師の所に行き、人手に渡さずに持って帰って、服用させなければなりません。」
 人手に渡せばどの様な工夫で毒を混ぜられるかも知れないとの意が言葉の中に明白である。蛭峰は「勿論です。」と答えて直ぐ自分で飛んで出た。

 有国医師は再び華子を診断し益々不審出仕方が無い様子で頭を左右に傾けて考えたが、ついにあのアルファベットの表を取り弾正に向かって聞いた。その結果として分かったのは、弾正がこの頃華子の身を気遣って、自分の用いるビルシンの入った水薬を毎朝少しづつ量を増やして分け与え、今朝は四匙まで服さしめたとの事である。

 有国医師は手を打ち、「そのご用心が悲しくも功を奏しました。そのために華子はまだ死に切れずにいるのです。いかほどかすかなりとも命がつながっている間は即ち希望がつながっているのです。」と言って弾正を慰め、更に口の中で、「これで二重の事柄が明瞭になった。確かにこの家に毒外者がいるということと、その毒薬が前から見抜いた通りビルシンであることと。」
 唇がまだ動いている所に蛭峰夫人も来た。夫人の驚き、かつ悲しむ様子は夫蛭峰より誰よりも深いように見えた。

 この日のまだ暮れない間に、この蛭峰の隣に引っ越してきた人がいる。どうして今までの住人を立ち退かせたのかは知らないが、一年分の前家賃で借り入れたとの事である。家の土台が朽ちているとの口実ですぐ大工などを入れ修繕に取り掛かった。その物音が弾正の隠居所へまで聞こえて来る。そもそもこの借主は誰だろう。イタリアの僧侶暮内法師ということである。

第二百三十四回 終わり
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