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巌窟王
アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
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史外史伝 巌窟王 涙香小子訳
二百四十一回、『落人』(一)
それにしても、段倉家にこの様な大打撃を降らした本元はどうしただろう。本元とは小侯爵皮春永太郎である。イヤいま少しの所でパリー第一流の銀行家の婿となる所であった無宿者の弁太郎である。
彼は捕り手の入って来るのに会い、誰よりも最も驚くべきはずなのにその実、誰よりも最も落ち着いていた。諸人が何事ぞと気も転倒するほどの際に、彼は早や第二の客間から第三の客間にすべり入り、更に転じて段倉男爵の居間には入った。
ここには男爵夫人が宵のうちにこれかあれかと取り出して選り残した指輪や頭の飾りなどがまだ取り散らかされたままである。どれを見てもダイヤモンドやルビーなどの嵌(はま)っていないのは無い。大抵は一個数千円《今の数百万円》、数万円《数千万円》と言う品である。行きがけの駄賃とはこれだとその中のめぼしいものを先ず五、六品もポケットに詰め込んだ。確かに十万円(7億円)からの値が彼の身に付いたのだ。
こうして直ぐに窓を飛び出し裏庭から潜(くぐ)り戸を経て外に出た。これらの時間は五分ともかからないほどだった。客間には丁度捕り手の長が部屋の戸口戸口へ番兵を配置している頃で、誰だって肝心の花婿がこう早く逃げ去ろうとは思わなかった。
捕吏さえも確かに皮春小侯爵がまだ客間にいることと信じていた。勿論調印式の主人公とも言うべきで、居なければならないはずであって、その上に捕らえなければならないような準備と捉えなければならないほどの早やさ及び秘密をもってやって来たのだから、逃げたこととは思わない。逃げる道、逃げる時間が有ろうとは思わない。それだから裏口の方は警戒も不必要として、番兵を立てていない。いわば開けっ放しである。
永太郎イヤもう小侯爵の芝居も終わって永太郎ではない弁太郎だ、弁太郎は潜り戸の外で、一応四方を見回し、早くも自分の逃げ方のうまかったことを見て取り、これならば生半な走りなどしては人に怪しまれると思い、普段道ち行く人のように見せかけ、但しなるべく暗いところを選んで迂回はしたが悠々と歩み去った。
その去る先はパリー市の北の口とも称すべきセント、デニスの方角である。何にしてもこの土地にいることはできない。外国行きには旅行券がないのだから、国境を越えることが出来ないけれど、兎も角、今夜の中にこの土地を離れるのが肝心である。後のことは行く道々で考えるのだと、これだけは心に決めている。
セントデニスの間近に行って時計を見ると夜の十一時を僅かに過ぎたばかりである。先ず居合わす馬車を呼び、怪しまれないように口実を作り、「俺は友人の田舎の別荘に狩猟に行くので、その友人の馬車がこの辺で待っているはずであったのに、俺の来るのが遅れたため、友人は先に立ったと見える。どうだ、この馬車で友人の馬車に追いつく事が出来たるだろうか。」と聞いた。
馬車の主は先ず乗せるまではどの様な無理でも聴く。「私の馬ならどの様な馬車にでも追いつきますよ。」
弁太郎;「三時間のうちに追いつけば四十フランの賃をやる。」驚くべき賃銭では有るけれど、行かぬ友人に追いつく筈は無いのだから、弁太郎は安心している。
馬車の主;「もし追いつかなければ」
弁太郎;「追いつかなくても大急ぎに急げば、規定の料金の倍をやる。コンベーイン街道を目指して急げ」と言って早や引いてくる馬車に乗った。馬車の主は一人承知している様子で、「今から30分ほど前に、それかと思われる馬車が通りました。若い男女が旅装束で乗りまして。」
旅装束の若い男女、女はいま少しの事でこの弁太郎の妻となるところであった段倉夕蝉嬢、男は男装をした網里女史とは、流石の弁太郎も気が付かない。それを追いかけて、もし追いついたら又一場の奇劇が出来はしないだろうか。その様なことは思いもしない。
「オオ、或いはそれかも知れない。兎も角急げ。」
第二百四十一回 終わり
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