巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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巌窟王

アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2011. 8.22

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史外史伝 巌窟王    涙香小子訳

二百五十、『段倉の笑顔』 (一)

 この日一日、および夜に入って明けるまで、暮内法師は華子の枕辺で祈り明かした。祈りの間には又時々野々内弾正の枕元に座し、懇々と何事をか語り聞かせたが、弾正はまったくその言葉に慰められたと見え、終(つい)には華子の死んだということさえ忘れたように、顔に大安心の色を浮かべて眠りに入った。
 翌朝法師が去った後で蛭峰は、この部屋に来て、ただ驚いた。昨日まであれほど華子を悲しんだ弾正がどうしてこうも安々眠ることになったかと。

 かくていよいよ、華子の葬儀とはなった。もう昨夜のうちに葬儀社の方で、それぞれ用意をしてあるので少しも手間取ることが無い。出棺は朝の十一時である。日頃蛭峰を知る者は大抵来たり集まった。が暮内法師と巌窟島伯爵はとは見えない。法師の方は他の家に死人が有ってそれのために招かれ去ったとの事である。
 巌窟島伯爵の方は何ゆえか分からないが、客の一人の言うことには、十時半頃に段倉(だんぐら)の家に入るのを見受けたとの事である。
 何ゆえに段倉の家へ、これは一応記して置かなければならない。
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 かの皮春小侯爵の旧悪露見。娘夕蝉の逃亡と打ち続いた大椿事(だいちんじ)《思いもよらない出来事》に、段倉の家はほとんど火の消えた状態である。彼の銀行家としての信用も地に落ちた。それもそのはず、ただイタリアの金満家と聞いただけで、深く本物か偽者かの調べもせずに、殺人の犯人を婿とするような失策があって、誰がその人の懐を見抜かずに居るものか。まだ支払い停止の札こそ掛けていないが、眼ある人は少しも段倉銀行に油断をしない。

 けれど、段倉は只者ではない。この苦しい際に当たり、なおも体裁を装って、土壇場を漕ぎ抜ける積りで居る。集められるだけの金を集め、満面に笑みを浮かべて客に接する様子は非常に嬉しい事でもあるかのように見える。これが泣くより辛い笑いである。
 人間はこの様な笑いを搾り出すごとに寿命が縮むのだ。例え生き血は搾り出すとも、決して笑みは搾り出すべきではない。

 この様なところに段倉に負けないほどの笑みを浮かべて入って来たのは巌窟島伯爵である。ただし、こちらの笑みは多分寿命を延ばす方なのだろう。
 伯爵は快活に、「段倉さん、今日は五百万フランだけ現金を受け取りに来たのですよ。」
 流石に段倉の笑みもこの一語には命と共に消えそうに見えた。一枚の金をもはがして二枚にして使いたいほどのこの場合に五百万フランを持ち去られてたまるものか。けれど、伯爵は充分の勝算を立てて来たのだ。

 今日段倉銀行が五百万フランを慈善協会へ払わなければならないことを突き止め、それを払って、信用を回復するために、四苦八苦でそれだけの算段をしてあることも知っている。その金を先に回って引き抜いて行けば後で慈善協会から受け取りに来ると同時に、銀行は戸を閉じなければならない。伯爵の心算はは神の如しだ。

 段倉は血を吐く思いで又笑いに紛らし、「貴方には私から拝借に出ようかと思っていました。」
 伯爵は平気な調子で、「お出でなさいな。貸す時にはいくらでも貸しますよ。貴方に金を貸さないというのは愚の骨頂ですもの。その代わり借りるときには、借りなければなりません。」言いながら目早く辺りを見回すのは、何でも段倉が慈善協会に払う金をこれ見よがしにどこかに積み上げ、誰の目にも分かるように見せびらかしてあるに違いないと思ったためである。

 何でも銀行家は苦しければ苦しいだけ、益々金を見せて置くものである。果たせるかなだ。イヤ実は段倉の運が全く尽きたというものだろう。テーブルの上に中央銀行に宛てた引き出し手形、一枚百万フランづつ、五枚段倉自身が署名して墨を乾かすように広げてある。

 伯爵は大笑して、「冗談を言うのにも程があります。この様な大金をテーブルの上に転がして置いて、イヤ、段倉さん、貴方の金力には驚きますよ。これでよろしいから私は戴いて行きます。」と言って、直ぐにその五枚を重ねて取ってポケットに入れた。段倉は命を取られたようなものである。ほとんど伯爵に掴みかかるかと疑われたが、又辛い笑いに紛らせ、「それはいけません。今すぐに慈善協会から受け取りに来るのですから。」
 伯爵;「来ればその時又この通りの紙切れを五枚作れば好いでは有りませんか。」
 段倉;「イイエ、本当です。いくら中央銀行に信用されていても、そう取り出しては、」

 伯爵;「馬鹿なことをおっしゃるな。サア、これは私の受取書です。私は直ぐに受け取ると言う積りで、この通り認(したた)めて来ました。五百万フランと記して有ります。これをローマの富村銀行に送れば五百万の上へ十万だけ利子が付いて直ぐに届きます。」と言って紙に記した受け取りを段倉の前に投げ、更に、「これから私は蛭峰家の葬式に行くのですから、貴方にからかわれているわけには行きません。さようなら。」と、来た時と同じ活発な調子で去った。

 伯爵のこの手際には欧州一流の外交家と言えども舌を巻くだろう。そうして廊下まで出ると、外から入り来る慈善協会会長とすれ違った。会長は手代に案内されて段倉の部屋に進む所である。
 手代は主人が今いかんともしがたい状況に呻いているのも知らず、「ハイ、ハイ、当銀行では今日お渡し申し上げる積りで、既にそれだけの用意を致しております。」と余計な事まで言い、小足に歩んでいる。
 伯爵は腹の中で、「一足遅れれば大変だった。」

第二百五十回 終わり
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