gankutu252
巌窟王
アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
since 2011. 8.24
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史外史伝 巌窟王 涙香小子訳
二百五十二、『大尉と伯爵』 (一)
段倉の家を出た伯爵は、直ぐにその足で蛭峰家に行き、葬式の列に加わった。葬式は早や家を離れ数百メートル進んだ所だったので、伯爵はその最後に立って随行したが、絶えず馬車の窓から横手に首を出し、前の方を眺めるのは、会葬人の中にある人がいるかいないかを確認している様子である。けれど、何分大勢の会葬人と言い、特に後ろからでは思うように見分けをつけることが出来ない。果てはもどかしくなったと見え、馬車を降りて徒歩となり列の前の方へ進み行きながら、ほとんど一人一人を改めるほどにしたが、伯爵の目指す人は会葬人の中には居ないらしい。
目指す人とは誰だろう。他に有らず森江大尉である。大尉がいかに立腹して蛭峰の家に暴れ行き、又いかに絶望してその家を立ち去ったかは、伯爵の概略知っている所だ。イヤ暮内法師が蛭峰の家に迎えられた時、入り口ですれ違って親しく認めた所である。大尉の日ごろの気質から考えれば、この様な絶望に会って、為すことも知らずに穏やかに泣き寝入りするような人ではない。必ず何か非常なことをしでかして、取り返しの付かないようになりはしないかと、伯爵はただひたすらそれを気遣い、油断無く大尉の身を見張っていたいのである。
しかし大尉はどの様な非常のことをしでかすのであろう。最早や華子は死んだことゆえ、これも大概は分かっている。華子の後を追って自殺するのだ。確かに伯爵は大尉が心中に自殺の決心を起こしたと見抜いている。自殺の場所は多分墓場に違いない。どう会ってもこれだけは押し留めなければならないと、充分に注意してついに墓場まで着いたけれど、大尉の姿が見えない。けれど、この葬式に大尉が来ないこと言うはずは無いから、やがて埋葬も済んで一切の人が帰り尽くした後までも伯爵は踏みとどまり、物陰に身を隠して居た。所が果たせるかなである。一方の小高い森の中から、静かに大尉が現れた。
彼は先ず辺りを見て、邪魔する人の無いのに安心したか、おもむろに今建てたばかりの墓標に近づき、その前に膝を折った。丁度伯爵のいる所は大尉の後ろの方に当たるので、大尉には見られずして、大尉の姿を見ることは出来る。見ればどうやら腰の辺りに短銃を隠している。
誠に森江大尉のごとき、若手武官中にも名誉高く、後々の見込みも充分に富んでいる人が、一婦人の死のために、後から命を捨てると言うことはなさそうに思われるけれど、そう思うのはまだ、華子に対する大尉の愛の深さを知らないのだ。世には今日親しみて明日忘れ合うような浅い愛もあるけれど、命と言うことをなんとも思わない深い深い愛もある。その深い深いに至って、もし一方が死するときは到底残る片割れが永らえていることは出来ない。名誉も幸福も義理も人情も総て忘れてしまう。この様な愛と愛とがもし纏(まと)まることが出来れば、人生に又とない無限の喜びに入りもするだろうけれど、不幸にして末遂げなければ、双方ともこの世に無い人とはなる。いずれの国の情死にもその例は多い。夜々に華子を介抱して又日々に大尉にも接し確かにそう見抜いている。今は悲しやその見抜いた所が当たったのだ。
墓の前に膝を折って、大尉は何か祈っているようであったが、そのうちに一声高く、「オオ、華子よ」と叫ぶ声だけが伯爵の耳に聞こえた。これが真情の集まってあふれ出る声なのだろう。最早猶予はしていられない。伯爵は物陰から立ち出でて、静かに大尉の後ろに行き、「オオ、森江さんですか。」と言ってその肩に手を置いた。大尉は驚いたけれど、騒ぎはしない。やや久しく伯爵の顔を見つめ、いささか恨みを帯びた低い声で、「貴方が請合ってくださったのが、この通りになりました。」伯爵も非常に静かに、「ハイ、まだ私は請合っているのです。」
死んだ後に及び、請合っているとは、何をどう請合うのだろう。不思議千万な言葉ではあるが、けれど大尉は聞きとがめようともしない。全くもう死ぬ気のため、細かなことには頓着しないのだ。この様なのが本当に恐るべしだ。誰に何と言われても思い直すということが無い。伯爵は更に、「少しも貴方は絶望するに及びません。充分な希望をもってお出でなさい。」大尉は相変わらず無頓着である。「サア、伯爵、お参りに来たならばお参りなさい。後で私は祈祷するのですから」
伯爵;「イイエ、私は済みました。貴方が祈祷を終わるのを待ち、馬車を共にして帰りましょう。」
大尉;「私は別に帰ります。一人で」
愛想も世辞も無い。伯爵はなお立っていた。大尉は最早邪魔者の来たからにはここでは望みは果たされないと思ったのか、又しばらく膝を折り拝んだ上、立ち上がり伯爵には冷淡に、「さようなら」と一礼したまま立ち去った。
伯爵は少しやり過ごしてその後に付き見え隠れに従って行ったが、何処にどう落ち着くのだろう。
第二百五十二回 終わり
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