巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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巌窟王

アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

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史外史伝 巌窟王    涙香小子訳

二百六十、『裁判』 (二)

 弁太郎は警官に連れられてこの法廷に歩み入った。有罪と決まる日には勿論死刑に処せられるべきはずだから、きっと落胆の様子がその容貌に現れているだろうと誰もが予期した。所が彼は少しも打ちしおれたた様子が無い。

 真に彼は平気である。ここを法廷と知っているのだろうかと怪しまれる。或いはただ通例の親しい家の客間にでも通されたような気でいるのではないだろうか。顔の面の静かさは普通の人と少しも変わらない。恐れも悲しみも、はたまた嬉しさも、何事をか心待ちに待ち受けるような色も何も無い。単に平気である。

 そうして身のこなしも別に顔色と違ったところは無い。やはり平気の人である。法廷に入って先ず居並ぶ裁判官を見た。中にも裁判長をもっとも長く見た。次には大検事蛭峰の顔を、これは裁判長の顔を見たよりも長く見た。そうして定めの席に着く時に軽く傍聴席を見回した。

 別に或る罪人のように勉めて愛嬌を振り播(ま)くのではないが、しかし彼の顔に生まれつき多少の愛嬌がある。傍聴者の意見は二派に分れたらしい。「余ほど法廷に慣れているな。」と言うのもあり、「彼は固く自分無罪を信じて落ち着いているのだ。何でも非常に意外なことを言い立てるに違いない。」と言うのもあった。しかし二派ともに益々この法廷が面白いと思い、早や手に汗を握ったのは同様である。

 彼の次に彼の弁護人が着席した。事情に通じた人の説によると、彼弁太郎は自分から弁護人を頼むことを嫌い、「ナニ、そのような者には及ばない。自分の身は自分で弁護する。」と言ったそうだ。この一語で胸に何事をか蓄えている事がますます分かる。それでこの弁護士は規則の通り裁判所が選んでつけたとの事であるが、余ほど新米の人と見え、年も若く、そうして被告の平気な様子に引き換え非常に心が騒いでいるらしい。

 こう席が決まるや否や、裁判長は大検事に、論告に取り掛からせた。サア、これが実に聞きものである。何時でも蛭峰の弁論は、さすがに大検事だと傍聴人に敬服《敬い従う》されるが、この日のは特に雄弁の妙を極めたと言っても好い。簡単で明白で、そうして力が強い。或る所は針で刺すように、又或る所は鉄槌で叩き砕くように、非常に痛快に被告の罪を数え、その心根を責め、この様な者を生存させて置くことの社会の危険と、これを鎮滅する裁判の職責とを説き、僅かに二十分ばかりの間に、傍聴人全体の心を、ことごとく弁太郎を憎む方に振り向けた。ただ一人この雄弁感動せず、初めの通りに平気のふりで保っているのは弁太郎である。首をも垂れなければ、眼をも動かさない。

 これは少し大検事の見込みにも目的にも違うのだ。何が何でも彼をして恐怖、悔恨、はたまた慙愧置くところが無いことを知るまで責め付けなければならない。彼に顔色を変えさせ、身を戦かせるまでに感動を与えなければならない。

 大検事は更に、その二十余年の職務上の経験から得た人間の心理の微妙な糸筋を手繰(たぐ)り、一層は一層よりも深く弁太郎の心の最も痛い所を突いた。これが検事の奥の手である。この手にかかって揺るがない者は今までに一人も居ない。けれど弁太郎だけは揺るがない。この上も無い平気な様子がなおその上に度を増すようにも見える。

 検事は全く手段が尽きた。この上に説くのはかえって今までの自分が言ったことの力を減らしこそすれ、増しはしない。一度ここは論を結んで更にしかるべき場合を待ち、新たに雄弁を持ち出すほかは無い。ただ幸いなことには、被告が平気であれば平気であるだけ、傍聴人がその厚顔を憎み、二派に分れていた同情が全く一団となって被告を見捨て検事の方になだれ込んだ様子だから、これをせめてもの慰めとして蛭峰は席に着いた。しかしこの向きでは、前から被告にどうしても白状させなければと思っていたことを白状させることが出来るかどうかは覚束ない。

 この次は被告が尋問されるべき順番である。裁判長は被告に向かい、先ず姓名を問うた。被告は春田路弁太郎と答えるべきである。けれど意外にも彼は、「私は自分で答えるべき事柄の順序決めていますので、その順序に違ったお返事は致しません。どうか姓名は後に回してください。」と請うた。あまりに不思議な請いである。さてこそいよいよ意外な陳述が出るだろうと傍聴人は又熱心の度を増した。

 被告は更に、「もし、どうしても姓名から問わなければならないとおっしゃるなら、私はいくらお問いなさっても返事はしません。無言で死刑に処せられます。」と度胸の底を打ち播(ま)いた。裁判長はどうしてもとは争わない。「しからば年齢から問おう。どうだ、年齢の次に職業と、この様な順序に問えば返事は出来るか。」 被告;「ハイ、それならば出来ます。」何の為であるか、ほとんど分からない。

 裁判長;「何歳じゃ。」
 被告は「満二十一歳になる所です。」と明らかに答え、更に検事長の顔を見て、「よく注意を願います。私の生まれたのは1817年の9月27日の夜中です。」検事長は次に立つべき弁論のためにナニやら忙しそうに手帳に書き止めていたが、この年月日を聞くと共に、頭を上げた。「ハテナ」と、特に気に留める様子である。

 裁判長;「何処で生まれた。」
 被告;「パリーの郊外、オーチウル街で生まれました。」この地名に大検事は再び頭を上げ今度は被告の顔を見てジッと眺め、少し自分の頬に血の色を動かした。被告もこれと同時に目早く大検事の顔を見たが直ぐに又知らない顔に帰り、絹のハンケチを出して口元を拭った。その口元には異様な笑みが浮かんでいる。何だか楽しそうに荷も見える。

 裁判長;「シタが汝の職業は」

第二百六十回 終わり
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