gankutu268
巌窟王
アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
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史外史伝 巌窟王 涙香小子訳
二百六十八、『断末魔』 (四)
蛭峰は伯爵を引き立てて何処へ行く積りだろう。荒々しく伯爵の手を取って、ただ無性に引く様子はほとんど狂人の所為である。けれど、伯爵は逆らわない。引かれるままに着いて行った。
やがて蛭峰は己が妻の部屋に至り、ただ
「御覧なさい。御覧なさい。」
と言って指さすのは、妻の死骸及び子の死骸である。伯爵はハッと驚いた。彼の妻、彼の子まで無惨の死を遂げたとは知らなかった。
蛭峰は又叫んだ。
「これが貴方の復讐ですか。」
今が今まで伯爵は自分が神の助けを得、神の意を奉じているとばかり思っていた。けれどこの様子を見ては、神の意よりも更に一歩踏み越して、我が殺生の過ぎたことを見て取った。全く伯爵の顔色は変わった。
「オオ、ここまでとは思わなかった。」
叫ぶや否や部屋の中に飛び込んで、重吉の死骸を抱き上げた。
妻の方には充分の罪が有るから、伯爵はその死をいたむべしとはしない。ただ息子の死に至っては、全く罪の無い者にまで、復讐を及ぼしたことに当たるから、どうしてもこれを蘇生させなければならないと決心したように、慌(あわただ)しくその心臓をなで、又慌しくその瞼(まぶた)を開きなどして、まだ一点でも生気の存して在るや否やを検(あらた)めたが、もう事切れ後である。
「エエ、残念だ。手遅れとは」
と、何と言ったらよいか分からない様な、絶望の声を発した。けれどなお捨てるには忍びないと見え、直ぐにその死骸を抱き上げ、しっかと自分の胸に添えたまま、再び弾正の隠居所に走り入った。蛭峰は伯爵が何をするのか理解できない。ただ伯爵の後に従い、同じく隠居所に入ったけれど、早や伯爵は戸を閉め切った後である。続いて入ることは出来ない。
およそ二十分ほども経って、伯爵は又も重吉の死骸を抱いたまま出て来た。
「もうどうしてもこの世へ呼び返すことができないのは残念だ。」
と言い、再び蛭峰夫人の部屋にその死骸を持って行き、口に祈祷を唱えながら、夫人の死骸と枕を並べてこれをベッドの上に置き、白い布をその上に当て、
「このような思いをするのも全く復讐が過ぎたのだ。」
とほとんど後悔に我慢が出来ないように呟いてここを出たが、それにしても蛭峰その人は何処に行ったか影さえ見えない。
そこここと見回すうち、隠居所に雇われてただ一人この家に残っている僕(しもべ)の姿を認めたので、直ぐにこれを手招いて、
「蛭峰氏は何処に行った。」
僕;「裏庭の方へ行かれた様です。」
直ぐに裏庭に出てみると、蛭峰は鍬をもって芝の上を掘り返し、 「重吉は何処に行った。何でもこの辺に違いない。」
と口走っている。その様子、その顔、最早疑うところは無い。全く発狂したのである。
伯爵は恐ろしさに耐えられず、身を震わせながらそばに寄り
「蛭峰さん、蛭峰さん」
蛭峰は見向きもせず、
「ナニ、この辺に隠れたのだ。重吉、重吉、出て来い。ヤヤ、まだ出てこないぞ。来なければ何時までもこうして掘るのだ。」
声まで聞くに耐えられないほどの恐ろしい響きを帯びている。伯爵は最早踏み留まる勇気が無い。又その必要も無い。直ぐにこの家を走り出て、逃れる様に我が家に帰った。
我が家には森江大尉が、一人退屈に耐えられない様にこの部屋あの部屋と経巡っている。直ぐに伯爵はこれに向かい、
「今夜のうちにこのパリーを立ち去りましょう。」
大尉は嬉しくも悲しくも感じない。もうこの世のことを思い断った様子である。単に、
「そうですか」
と言い、更に又、
「パリーでもうなさることは有りませんか。」
と聞いた。
伯爵;「ハイ、することはし過ぎるほどにしましたから、早く立ち去るだけです。」
『告別』
この日の夕方、伯爵は大尉の妹の江馬夫人の家に行って、その夫婦に別れを告げた。この他には誰に言葉を残すべき用もない。勿論夫婦が名残を惜しんだことは、一通りではなかったが、それを何とか慰めて、大尉の手を引いてここを出ると、外には四頭立ての馬車が待っている。御者はかの黒人アリーである。伯爵はアリーに向かい、
「先刻の手紙を老人に渡したか。」「老人は瞬(またた)きしたか。」「そのそばには春田路が介抱していたか。」
など重ねて問い、アリーが一々「はい」と頷くのを見て、独り言のように、
「アア、老人が承知したなら安心だ。その内に春田路が安全に供をして来るだろう。」
と呟き直ぐに馬に一鞭宛てた。
馬車は矢のように走り始め、パリーの全市が蒼茫たる暮色の中に没する頃、早やマルセイユに行く街道に出て、ピレデフの丘の頂上に登った。ここから頭を廻(めぐ)らせると、パリーの全市は、大いなるパノラマを広げたように、目の下に見えるのである。
伯爵は馬をとどめて車を降り立って、パリーを見返ったが、広い限りない闇の中に、星の海かと疑われる様に、千灯万灯がきらめいて、処々に火焔(ほのお)が立ち上るかと疑われるほど、明るく見えるところがある。
これに対して伯爵の胸にはどの様な感慨が起っただろう。戦に勝って凱旋する将軍が、千軍万馬に踏みにじった戦場を、振り向いて見る時の心持もこのようだろうか。やや久しく無言で眺め入っていたが、ついには、「嗚呼、」と溜息して、大地に伏し、生きた人に物を言う様に、パリーに向かって、
「嗚呼、パリーよ、大いなるパリーよ、我神の意に導かれて、汝の巷(ちまた)に入ってから、ここに半年、今は天の使命を達して、汝に別れを告げるものなり。余が使命の何なりしやは、ただ神の知るのみなので、汝も知らない。
私は汝の巷を去るに臨み、心にやましき所は無いと言えども、何うして又多少の悔らみを残さないで居られようか。パリーよ、パリーよ。私は深く汝の肝裏を探って得るべきものを得、為すべき事を為し得たが、その間に一点の私欲の念も差し挟(はさま)なかった事は、天の照覧に明らかである。
私は汝の肝裏に隠れる、深い罪悪を抜き去って、今は汝に恩怨は無い。再び神に導かれて汝の巷を去るに臨み、ただ汝が余の行動を妨げ無かった事を謝して告別とす。パリーよ。さらばパリーよ。さらば。」
言葉は平らかでも心は深い。唱える声は天風に吹き散じて、大空に上って消えた。天、漠漠、夜、寂々、いずこへ再び伯爵の身は現れて出るやら。
第二百六十八回 終わり
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