gankutu277
巌窟王
アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
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史外史伝 巌窟王 涙香小子訳
二百七十七、『結末』 (九)
腹の空くと言う事どれ程恐ろしいかは、誰でも知っている様であるが実は知らない。イヤその知っている所より十倍も百倍も辛いのだ。空腹の極点は死亡にある。その死亡までに、時々刻々、少しの絶え間も無しに体が内側から削られる。顔の肉も手足の肉も、少しずつ胃の腑へ落ちて行って消えてしまう。実に残酷な訳である。
もしも自分の体が外から一皮づつ剥(む)かれ削られると言えば誰でもその痛さを知るだろう。恐れて身震いするだろう。しかし外から削るのも内側から削るのもたいした違いは無い。外から削れば血が出たり肉が切れたりとその惨(むご)たらしい様が目に見えるから、余計痛いように思うけれど、内から削るのは苦しみが長い。長い苦しみを絶え間なく味わっていなければ成らない。これがためには眠りも消える。総ての器官がこわばって来る。余り辛くて発狂するものもある。到底人間の力で、否生き物の力で耐えられるものではない。けれど死ぬまでは耐えて居なければならない。コレが本当の嬲(なぶ)り殺しと言うものである。
段倉の飢えたのはただ一日だ。けれど、一日の飢えがもうどうにも耐えられないほどになっている。死んでも好いから何か食いたい。食わなければ生きも死もすることが出来ない。何と我慢の仕様も無い。彼は叫んだ。「一品売りが十万フラン、それなら一度の食事は幾ら取る。」
番人;「矢張り一品づつで勘定します。十皿なら百万フランです。」
段倉;「その様な大金は持って居ない。どうしてそう払うことが出来るものか。」
番人;「イヤ、お持ち合わせの五百五万フランの中から払えば宜(よろ)しいのです。つまり貴方は五十皿と半分だけの食事をする資力があるのです。」冗談のようなこの一語で、段倉は全く敵の企みの深さを知った。自分の懐中まで読み尽くしているのだ。もうもがいても無益である。兎に角も一皿は食べ、少し胃の腑を落ち着かせてその上でよく考えて見なければ成らない。
「仕方が無い、サア、雛(ひな)の丸焼きを持って来い。」と五千ルイを投げ出した。番人は「ではお釣りです。」と言って先刻のニルイを返して退いたが、直ぐに雛の丸焼きを持たせて給仕を寄越した。勿論段倉は貪(むさぼ)り食った。けれど、次の用意にと思い骨や屑等を取って置いて、皿だけを返した。
翌日は取っておいた骨と屑とで朝を凌(しの)いだが、今度は喉(のど)の渇(かわ)きを催して耐えられない。一杯のぶどう酒を請うたが矢張り十万フランである。それなら水をと言えばこれも同じ値である。余り無法のやり方だから番人意向かい、「貴様では分からない。頭分をここへ連れて来い。」と怒鳴った。
番人は憎らしいほど素直である。唯々(いい)《人の言うままに従う様》として退いたが、引き違えて頭分らしい者が来て、「私がこの山洞の主人鬼小僧という者です。」と名乗った。段倉は商売の交渉に良く慣れた日頃の口調で、「幾らの償金を出せば私を放免してくれますか。」向こうも簡単な商売口調で、「五百万フランです。」
段倉は白刃を差付けられたた様な気がした。「五百万フラン。それだけ取られるのは命を取られるようなものです。一文無しになってしまいます。一思いに殺してください。」
鬼小僧;「イヤ、この山洞で血を流すことは禁じられていますので。」
段倉;「貴方が主人だと言うでは有りませんか。誰が禁じずるのです。血を流すも流さぬも総て貴方の随意でしょう。」
鬼小僧;「イイエ、私はこの山洞の主人でも、まだ私に指図する大将がほかに有ります。」
段倉;「エ、大将がーーーー、シテその大将が私をこの様に取り扱えと貴方に命じたのですか。」
鬼小僧;「ハイその通りです。」
段倉;「では百万フラン出しますから許してください。」
鬼小僧;「いけません」
段倉;「では二百万フラン、オヤまだいけませんか。三百万フラン、それでも、エエ仕方が無い思い切って四百万フランまで出しましょう。」
鬼小僧は何か親切なことをでも言うような調子で、「貴方はそう贅沢(ぜいたく)に言葉を使ったり腹を立てたりなさっては不経済です。それだけ腹が空きますから。一品十万フランもする所では余ほどお言葉から倹約して掛からなければ、エ、そうでしょう何度繰り返しても五百万フランと確定しているのですから。」
段倉;「だって一品十万フランづつ取られると、どうせ飢える時が遠からず来ますから。」
鬼小僧;「ハイ、それは遠からず来るのでしょう。」
段倉;「その時には飢え死にさせるのですか。」
鬼小僧;「私のほうで手を下しては殺しませんが、食費が尽きて貴方が自然にお死になさるのは妨げません。」
飢え死にすればその後で五百万フランを取られるのだ。どうしても逃れられない場合とは悟った。けれど逃れない場合にもなお逃れ道を探すのが段倉の本来の根性である。彼は思った。何が何でも長く我が金と我が命とを保存する一方である。そのうちにはどういうことで助かる場合が現れてくるかもしれない。
或いはイタリアの政府で山賊の害を認め、イヤ既にその害は充分認めているだろうから、憲兵を派遣して駆り立てを始めないとも限らない。金と命を蓄えてその様な不意の助けを待たなければならない。我慢のできるだけは我慢しようと、堅く決心して喉の渇いたのを又我慢した。
第二百七十七回終わり
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