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白髪鬼
マリー・コレリ 著 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
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2009.12.14
白髪鬼
(十)
老主人はますます陰気な顔をして「はい、私は本当に懲(こ)りています。あの奥方の笑い方が私の妻と同じものでした。男の目からは愛らしいとも、美しいとも見えますが、あれが、すなわち心に偽りのある笑い方です。」私が返事をしないうちにまた言葉を継ぎ、「実に、人相ほど争われないものはありません。その後、私は多くの女を気をつけて観察しましたが、笑うときにあのような口元をする女は皆偽りです。男を欺(あざむ)きます。」
「貴方の妻というのはどうしたのだ。」「どうしたと言って貴方、私を殺しました。」「え、貴方を殺した。」「はい、殺したのも同じ事です。それから後というものは私は、人間の楽しみも知らず、世の中がただ陰気で、見るのも聞くのも皆腹が立つばかりです。」「とはまた、どういうわけで。」
「いや、こういうことですよ。もう30年も以前ですが、ふとしたことで美人を見初め、ようやく思いが届いて自分の妻にしたのです。妻も私を愛していることと思いましたが、その愛が偽りでした。ある時、私が商いのため旅行して、1週間ほど家をあけ、朝早く帰ってみると、妻は、他国から流れてきた音楽家と一緒に寝ていて、私が帰ったのを知らないのです。え、旦那、どうでしょう。男の身に取り、これほど悔しいことがあるでしょうか。」
「私は不義者と叫びながら、その男をベッドから引き起こしますと、その男は私に手向かって来ました。私は必死の思いでようやくその男を押さえつけ、ひもで手足を縛り、逃げられないようにベッドの足に結びつけて置いて、それから、片隅で震えている妻を捕らえて、ポケットに入れてあった短刀で乳の下をぐさりと刺し通しました。」
「妻は恐ろしい声を出して、そのまま死んでしまいましたから、私はその血だらけの短刀を男の顔に突きつけて、さあ、これが妻の形見だ、生涯お前の肌身を離さないように懐に入れてやると言って、今度は彼の胸に突き刺し、そのまま私は自分の家を飛び出しました。敵を討って良い気味だと思ったのはわずかの間で、3日目には人殺しと言う罪で私は捕まり、裁判を受けました。色々事情を酌量すると言うことで死刑だけは免れましたが、死刑の方がいくらか増しだったかも知れません。」
「死刑よりなお辛い15年の懲役です。懲役が済んで出てくれば、世間からは恐ろしいやつだと言われ、皆私を見て顔をそむけます。友達もなく、家もなく、生きているかいもないつまらない身の上となりました。いっそう死んだ方がましだろうかと、自殺を思ったのもたびたびですが、今持って死ぬこともできず、知らないこの土地に流れてきて、このような商売をしていますが、旦那、本当に女は悪魔ですな。ハビョ様などもあの奥方を持っていたら、末にはこのようなことになるのだと、私は影ながら気の毒に思っていましたが、このようになる前に死になさったから、結局幸せと言うものでしょう。」と、なるほど、恐ろしい物語。
私は聞いていて、老人の身の上が気の毒になり、思わずため息をもらすと、老人はほとんど独り言を言うように、「そうです。その私の妻というのがちょうどあの奥方のような姿で、笑う様子などは全く同じです。あの奥方の顔を見ると本当に恐ろしくなってきます。」私はますます心を動かし、ぞっとして身を震わせた。
今まで世間で誰一人ナイナをほめない人はなく、たとえ、恨む人はいても、一度ナイナの顔を見たらその恨みはたちまち消えて、二度と恨むことなど無くなると思われるほどなのに、このような社会の最下層にナイナをののしる敵がいるとは実際思いも寄らなかった。だが、この老人は自分の身の不幸から、見るもの聞くもの全て憎いと思い、すでに心を失ったのも同様なので、その言うことは取るに足りず、そう、全く取るに足りないと、私は心でけなしたが、なお、何となく気になるところがあるのはなぜだろう。
そのうちに、老人は上下一組の洋服を見つけ出し、私に渡したので、受け取って、これを見ると、これは珊瑚漁師が着る服で、寸法は私にぴったりに見えた。老人はまだ先ほどの話しに心を奪われている様子で「ですが、貴方はもう女などに心を寄せるような年ではないでしょうから、こんな話をしてもつまらないでしょう。と言う。」ああ、読者よ、女に心を寄せない年頃とは人生何十才の時だろうか。私のような30才未満の者に、すでにその年頃だと言うのか。
私はこの老人、目まで狂ったのか、それとも、私の姿がすでに老人と見間違えられるほど衰(おとろ)えたためなのだろうか。この疑問に耐えられなくなり、もう老人のくどくどしい、言葉を辛抱して聞いていることもできなくなった。
少し気短な言葉で「これ主人、この洋服を買うことにするが、鏡の間で着替えたいから、鏡のある部屋に入れてくれ。」と言って、更にその代価を聞き、更に靴なども買って十分に払い渡すと、主人は満足の様子で「はい、次の間が着替えの部屋になっています。鏡も有りますから、どうかごゆっくり」と答え、自ら立って次の間に案内した。
なるほど、一方の壁に沿って広い鏡が掛けてあり、私は久しぶりに恋人にでも会うように、胸を躍らせてその前に行き、自分の姿を映して、つらつらと眺めて見て、悲しいかな、読者よ、今の私は昨日までの私ではなかった。私は涙が両目にわき上がるのを感じた。
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