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白髪鬼
マリー・コレリ 著 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
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2009.12.15
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白髪鬼
(十一)
ああ、読者よ、鏡に向かって私が泣くのはなぜだと思うか。これが泣かずに居られようか。読者よ、読者。私はずいぶん立派な貴族的な風采(ふうさい)《姿》ありと人にも言われ自分でもそう思っていたのに、今は見る影もない老人になっている。流行病にかかった者が一晩で目がくぼみ、肉落ちて骨が出るのは前から知っていたが、私、伯爵ハピョがこうまで衰えていたとは、今の今まで思ってもいなかった。
目は深く落ちくぼんで、奥の方で光る様子は穴蔵の底の鮑貝(あわび)のようで、頬と言い、額と言い、全て皮がゆるんで、幾筋ものしわとなっていた。読者よ、顔は年齢を書き表す造化の神の書物とやら聞くが、私の顔はしわという棒を引いて、廃棄された古本かも知れない。顔から年齢を読もうとして読むことはできない。
とくに疑うべきは私の髪の毛だ。非常な苦痛を経験すると一晩で頭髪が真っ白になると、昔の書物には書かれているが、これは昔の人の作り話だとばかり思っていたが、これは作り話ではなく本当のことだった。
私の頭髪はほとんど雪のように白い。どこかに黒いところが残っていないかとかき乱してみたが一筋の黒い毛もない。特に、昨夜経験した恐怖、怒り、絶望などの多くの苦痛は、どことなく容貌に残っていてすごみがあり、これに、かき乱して逆立った髪の毛を付け加えたら私は実に白髪鬼だ。人にして鬼相を帯びている。
この家の主人が私を老人と言ったことは、実にもっともなことだった。私自身でさえも、これが昨日までの伯爵ハピョだとは思えない。この有様ではたとえ我が家に帰っても、ナイナを始めギドウまでも、私が生き返ったとは信じないかも知れない。
今までは、美人ナイナの夫として恥ずかしくない一男子だと思えばこそナイナに愛せられることを当然と考え、自ら似つかわしい夫婦と認めて、手を取って歩きもしたが、今からは後は白髪の鬼にして絶世の美人を妻とする。ナイナもきっと辛いことだろう。私もどうして心苦しくないことがあるだろうか。これを思えば私の鏡を前にしての苦しみは、穴の中での苦しみより一層深いものを感じる。
ああ、読者よ、私は家に帰るのを止め、むしろ、ここから出奔して、生涯を死人として、誰にも知られずに終わろうか。いや、いや、いや。ナイナが私を顔かたちだけで愛しているということがあるだろうか。本当に私を愛している。そのことは全く今までのナイナの私に対する言葉と態度で明らかだ。私はナイナの杖だ。柱だ。真にナイナの夫だ。
夫を亡くして今頃はナイナはきっとこの世のはかなさを悲しみ、ほとんど泣き崩れて立つ力も無いほどになっているに違いない。私が生き返ったと聞くだけで、ナイナはすでに天にも登った心地して、私の顔がこんなに衰えたことなど悲しむ余裕はないだろう。そうだ、私とナイナとの仲は顔かたちに左右されるような、そんな浅い仲ではない。そんなに浅はかなナイナではない。現にナイナが泣き悲しみ、世を頼りなく思うのを知りながら、少しのことに心が臆し、行って引き立ててやろうとしないのは、夫と言われる私のするべき事ではない。
夫婦の仲の親しみは、辛い事を乗り越えるごとに、ますます加わって行くと聞く。私が墓の仲で、髪の毛が白くなるほど苦しんだと知ったら、今までよりもまた一層私を大事に思い、私をいたわり、私を敬うようになるに違いない。私と別れることの悲しさはすでに昨夜からナイナが十分経験して知っている。この後再び分かれるのはナイナの最も辛いと感じるところではないだろうか。
今までナイナが私の形を愛していたなら、今からは私の心を愛するだろう。今まで私の心を愛していたのならば、今からは私の魂を愛するだろう。変わり果てても私は私だ。ナイナの夫は夫だ。
夫の衰えたのを嫌うような薄情な事が仮にでもできる女かと、ナイナの心を少しでも疑ったのは、実にナイナに相済まないと思い、その申し訳だけのためにも、帰らなければ私の信用が無くなる。
それにしても、衰えた私の姿は、何時までも衰えたままではない。2日、3日ナイナに介抱されれば枯れ木に春が巡ってくるよりも早く、落ちた肉も付いてきて、しなびた皮も延びて来るだろう。
ハピョは元のハピョだ。たとえ白髪だけは生涯治らないものとしてしても、真に年老いて衰えたものではないので、今なおナイナの夫として恥ずかしいとは思っていない。白髪は染めても済むことだ。よし、よし、と自らを励まし、それから体を拭き、着物を着替え、その上、髪もなでつけると、気のせいか、はや幾分かは若返ったように思えた。
とはいえ、まだ多少気にかかることもなきにしもあらず、余りナイナを驚かし過ぎては悪いので、とにかくも日の暮れるまで外を散歩し夜になった後、家に帰ろう。それも先ず、裏門から入り、第一に長年召し使うしもべを呼び、これにギドウを連れて来させ、彼に今までの経過を話し、彼の口からナイナの耳にそろりそろりとゆっくり話して聞かせ、私の姿が変わったことも前もってほぼ承知させておき、その上でナイナに会おうと思う。
うれしいことにも悲しいことにも女は非常に心を動かすものなので、万一気絶でもさせてはならないと、このようにこまごまと考えて、この家を出たが、読者のどなたも知っているように、当時余りに伝染病が激しかったため、イタリア皇帝ハンパート陛下は非常に御心を痛められ、日々自ら町々を歩いて、病人を訪問されていた。ちょうどその時、私はこの家から半町(約55m)ほど離れたところにいて、思いもかけず陛下の一行に出会った。
私は、低く頭を下げて敬礼すると、陛下は私を振り返えって見て、小声で従者に向かい「ああ、絵にでも有りそうな白髪の漁師ではないか。彼は老体にしてなお珊瑚漁をする者と見える。」とおささやきになった。
ああ、私は白髪の漁師か。昨日までは年に一度ずつ必ずローマの朝廷に伺候して陛下のごくおそばに控えたてまつり、宮中第一の賓客よと厚くもてなされた伯爵ハピョが、今は珊瑚漁の老漁師に見間違えられるまでになってしまったかと思うと、またも涙が頬に伝わるのを感じた。
そのうちに陛下は行き過ぎになられたので、私も気を取り直し、さて、これからどこに行こうかと考えてみると、第一に空腹に耐えられなかったので、まずは腹準備をした後のことにして、料理屋を捜すうち、目に留まったのは、昨日病気にかかり私が牧師に連れられて入ったあの酒屋だった。
これ幸いと店に入り、幾品かの食べ物を注文して食べながら亭主の話を聞くと、私の死んだことはいたるところで噂されていると見える。、亭主は現にこの店でハピョ様は牧師に介抱されながら死にましたと言い、私がそのハピョなのに気がつかず、私も勿論他人のように見せ、さだめし、ハピョ夫人は悲しんでいたことだろうと聞くと、「はい、牧師が知らせに行ったら、聞き終わらないうちに気絶したと言うことです。」と答えた。
気絶、気絶、それでこそ我妻だと密かにうなずき、更にその牧師のことを聞くと、なんと痛ましいことに、牧師は私を棺に入れ、私の胸に十字架を乗せて間もなく、自分が私の病気に感染して倒れ、教会に運ばれて昨日のうちに死んでしまったと言うことだ。
私はあまりの驚きに落ちる涙を悟られまいとして、顔を外に向けると、この時、丁度外を通る一人の紳士あり、知らない読者は誰だと思うだろうか。これこそ誰あろう、親友ギドウだった。私ははっとして飛び立って、そのそばに走って行こうとしたが、ギドウの様子に何となく合点がゆかないところがあったので、立ちかけた腰をまた下ろした。
ギドウよ、ギドウ、彼はきっと私が死んだことを、兄が死んだことのように悲しみ、目のふちも泣きはらしているものと思いきや、彼は、うれしそうな笑みを浮かべ、顔を上向きにそらせて、そろそろ歩く様子は、非常に満足した人のようであった。
それはいいが、その胸のボタン穴に赤いバラの花を挟んでいるのはどういうつもりだろう。婚約者の美人から贈られて肌身を放せないものかとも疑われる。しかも、その花は他に類のない変わった花で、私の目には疑いもなく、私がかって、ローマの朝廷に招かれたとき、陛下から賜って、妻ナイナに贈った鉢植えのその花だった。妻が命より大事と言い、私にさえも折らせなかったその花だった。読者よ、読者。私は本当に我が目を疑った。
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