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白髪鬼
マリー・コレリ 著 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
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白髪鬼
(四十七)
星子の死んだ病室を心の中で振り返りながらロウマナイ家の玄関を出ると、芝生の上に目に留まった一つの物があった。これこそかねて星子が私の愛犬イビスに投げ与えてそれをくわえて戻って来るのを楽しみにしていたゴムまりだったので、私はこれを星子の形見と思って拾い上げ、ポケットにしまってここを去った。
それから宿に帰る道で電報局に立ち寄り、ナイナに頼まれた通りにローマにいる花里魏堂に星子死去の訃報を送った。ギドウは受け取ってどう思うだろう。星子を自分とナイナの間に横たわるただ一つの邪魔と見ていたほどなので、かって私の死を喜んだようにきっと喜んでいることだろう。
それから私は宿に帰ったが、まず従者瓶造に向かい、今日、明日両日はたとえ、誰が来ても面会を謝絶せよと言い付けて、一室に閉じこもり、ハピョの本姓に立ち返り、くつろいであれこれ考えてみて、娘星子をあえなく死なせたことが、どう思っても諦めがつかなかった。
星子はロウマナイ家のただ一人の血筋で、私が死んでもまだ先祖の子孫を長く残せる後継者は、実に星子だけだったのが、彼女が死んでしまっては、ロウマナイ家は私と供に絶え果ててしまう。最も私がすでに不正実な女を、迎えたためロウマナイ家は汚れたものになった。私一人の過ちは十分先祖から咎めを受けることになるが、せめて星子だけでも生きていれば再興の望みがあった。
この後何時までも子孫連綿と栄え続き、再び世に敬われる仁人君子をこの家から生み出すことも無いことはなかったのに、星子が死んではその望みは全く絶え、大昔の十字軍の時代から歴史に名を残したイタリアの名族ロウマナイ家は無為無力なハピョを家筋のしんがりとして、19世紀の後半に滅ぶこととなった。これを思うと私の恨みは益々深くなった。
そうではあってもまた思い直すと、星子は私とナイナの間をつなぐ自然の鎖だ。彼女の存在する間は私とナイナは切るに切られない夫婦で、私の復讐の大決心も彼女のために妨げられることがなきにしもあらずだった。彼女はすでに死んだ。もはやナイナは私にとっては、全くの他人だ。仇敵だ。
思うに、星子は汚らわしい女の腹に宿ったもので、たとえ成長しても、世間で母の汚名を覚えている間は、その身の上に面白くないことが多く、生涯不幸の月日を送るかも知れなかった。悪事を知らず、欲心を理解せずに、少しも罪に汚されることなく、清浄無垢な生涯を一期として、早く天国に昇って行ったのは、かえってその身の幸せともいうべきか。
ロウマナイ家が絶え果てるのは、絶え果てるべき時が来たためだ。嘆いても仕方のないことだ。私はただ、手足まといの星子が死んだことを幸いとして、ますます復讐のあがきを早めるだけだ。ようやくこう思い直す事ができたので、翌日は星子の葬式をどうするかとナイナ夫人に聞くと、かの夫人は気を悪くして、葬式は執り行う必要はないと言うので、私はこれ幸いと親切めかして、自分からそのことを引き受けた。
死んで前後の感覚が無い者とは言え、私が恐ろしい思いをしたあの墓倉に葬るのは忍びないので、そこでネープル府(ナポリ)の丘の、最も見晴らしの良い所に土地を買ってここに葬り、その上に大理石の十字架の碑を建て、”Una stella surnila”(消えたる星)の数文字を記し、父母の名、及び生死の年月日を彫らせた。これは私の生涯で最も悲しい仕事だった。
このことが済んでからは、私は時々夫人のところを訪問したが、いままでよりずっと冷淡、いや、むしろ厳しい態度を示し、夫人から呼び向かいの手紙が来なければ行かず、行っても余り夫人と親しまず、夫人と向かいあって座っても絶えず哲学の窮屈な書物を膝に置き、夫人から話しかけられたものでなければ、自分からは口を開くことはなく、夫人の話が終わるやいなや、すぐに又書を開き、ほとんど夫人の美しい容貌も目に留まらないと言った様子なので、夫人は私に媚び、私の心を虜にしようとする態度はますます露骨になり、あたかもギドウの留守中に是非とも私を手の中に丸め込もうと決心したようだった。
このような中にもギドウから何度も手紙が来た。そのうちの夫人の分にはどんなことが記されているのか、勿論私の知るところではないが、私への手紙には相変わらず低俗な文面が多かった。すでに星子の知らせに接した返事には下のような一項があった。
「勿論小生に取ってはむしろ厄介を払ったようなもので、かえって安心しました。小生とナイナとの間はこの後もなるべくハピョのことを忘れるのが幸福で、星子は常にその忘れたいことを思い出させる形見であることに他なりません。」とあった。
また、一項には「病中である小生の叔父はすでに冥土の戸を広く開き、歩み入って行くばかりになっておりますが、まだ躊躇して歩み入っていません。本当にじれったいばかりです。時々は叔父の財産を捨てても、ナイナのそばに走り帰ろうかと思ったりしています。実に小生はナイナと離れては少しの幸福もなく貴下にナイナの監督をお願いしては来ましたがそれでもなぜか気がかりで、夜もおちおち眠られないほどです。」とあった。
私は特にこの一節を開き、はっきりした声で読み聞かせると、ナイナは聞くに従って、頬が真っ赤になり、我知らず怒りを催した様子で、その唇までふるわせながら、
「あんまり失礼な書き方です。」と叫んだが、やがて女のたしなみを思い出したように、強いて心を落ち着けたふりをし、
「これで花里さんの押しの強さが分かりました。貴方がこの手紙をお見せ下されなければ、これほどまでとは知らないで終わるところでした。実はですね、夫ハピョが余りギドウを愛し過ぎましたから、彼は図に乗り、私を自分の妹かなにかのように思い、兄が妹を押しつけるように私に押しつけがましい態度をとるのです。私も夫の親友と思えばなるべく遠慮していましたが、こうなっては捨ててはおけません。」
私は苦々しい笑顔を浮かべた。なるべく遠慮してこらえたとは何のことだ。ギドウが自分の体に巻き付いて我が首を抱き接吻するをこらえたのか。なるほど非常なるこらえすぎだ。とはいえ、私にとってはこれが付け入るところ、将棋なら王手飛車取りをかけるところで、
「そうですか、しかし、花里氏は近々貴方と婚礼をするように言っていましたよ。」ナイナは案外軽く受け、
「ご冗談を、」
「いえ、私は冗談など言いません。」ナイナはかっと怒るように席を立ったが、更に私の体に近づき空椅子に座りなおし、熱心に私の顔を見上げ、
「え、花里さんが私と結婚を、余りひどい、余りにずうずうしいと言うものです。え、伯爵、花里さんは正気の沙汰でそのような事を言いましたか。」
私は実にナイナの図々しさにあきれ、更にその嘘を誠にする態度、言葉の巧みさに驚きながら、言葉短く、
「勿論、正気の沙汰でしょう。」
ナイナはほとんど悔しさの涙声で、
「貴方までもそれを正気とおっしゃるのは余りに情けないではありませんか。第一、私があのような者を夫にするとお思いなさりますか。」
私は余りの偽りに気を飲まれてしばらくは返事をすることもできなかった。女とはこれほど人を欺くのにもすごい技術を持っているものなのか。それとも、ナイナはすでにギドウと言い交わした深い語らいを忘れてしまったのか。ナイナの心は石版のように厚く、石版のように冷たく、一度書き記した愛の文字も一片の海綿で跡形も無くぬぐい取る事ができるのだろう。
ああ、読者、私はギドウを哀れもうと思ったがそれもできなかった。彼も又私がかってナイナに欺かれたのと同じように欺かれて、私と同様な絶望の境涯に落ちようとするのか。そうだ、そうだ、彼は全く私と同じ目に会おうとしている。しかし私は今更何に驚き何を哀れむだろうか。
彼を同じ欺きに会わせ、同じ目にあわせることは、これは私が復讐の一部ではないか。目をえぐられれば目をえぐり返し、歯を抜かれたら歯を抜き返す。これは昔から勇士が奉じた復讐の大原則だからだ。
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