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白髪鬼
マリー・コレリ 著 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
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白髪鬼
(四十八)
私が返事に迷い、一言も発する事ができないでいる間に、ナイナは更に熱心にその問を繰り返し、
「え、伯爵、貴方まで本当に私が花里氏のような俗人を夫にするだろうとお思いになりましたか。」俗人とはよくもうまくギドウを評したものだ。
彼は実に俗きわまりない人物だ。だがナイナの目にそれほど俗人に見えるならば、なぜ彼を私に乗り換えて私の目を盗み、深く彼と言い交わしたのだろうか。嘘をつくのにもほどがあると私はあきれながらも返事をしないわけにはいかないので、
「はい、思いましたよ、実際そう思うのが当然では有りませんか。花里氏は年は若いし、容貌と言えば世にまれな美男子で、ことにローマにいるその叔父が死ねば、かなりの財産家にもなりますし、夫としては少しも申し分のない人物かと思います。」
「その上、貴方の夫ハピョにとってはただ一人の親友であったという事では有りませんか。」と随分力強い口実を持ち出すと、ナイナの偽りの口振りはこれくらいではびくともせず、かえって一層の良い口実を与えてくれたというように付け入って、
「さ、それだからなおさら私の夫にはできないと言うのです。」私は合点がゆかないように目を見開き、
「え、それだからとは」
「いや、夫ハピョの親友ですから、よしんば私が花里氏を愛したところで、夫の親友を二度目の夫に選ぶのは嫌なことです。ましてや、私はあの人のあまりの俗々しい態度にはハピョの存命中から愛想を尽かしていました。」
本当に嘘ばかり。私はどの口でこのような事が空々しく言うことができるのかと、ほとんど怪しんでナイナの口元を見ると、ナイナはあたかも千里の道を馬がおのれの蹄(ひずめ)の音に勇み、ますます走り出すように、自分の口ぶりの上手なことに励まされたのか、いよいよ大嘘を言い、
「まあ、考えていただければ分かりましょう。私が彼と結婚してご覧なさい。世間のうるさい人の口は必ず得たりかしこしと色々な説を立て、ナイナ夫人は夫ハピョの生きているうちからすでに花里氏とわけがあったなどと、私を傷付けるに決まっています。」
うまい、うまい、オセロ、デズデモナの弁舌よりもまだうまい。 しかし、これは何もかも知り尽くしている私の心をだますには足りない。ハピョがもし伝染病で死ななければ、毒殺してでもギドウは御身と添い遂げると言っていた恐ろしい言葉が、今でも鼓膜の底に残っている私ハピョの耳を、ないがしろにしてはいけない。
ましてこの言いわけは全く我と我が汚れを白状するのと同じだ。日頃から心にこのような心配を抱き、ギドウと結婚する暁に、もし世間の人からこのように見抜かれはしないかと傷持つすねに、弱みを常々心配しているため、折に触れてその心配をもらすのだ。
少しも汚れのない人は、こうまで細かく気がつくものではない。たとえ気がついたとしても、自分の心が確かなので世間の評などは恐れない。悪口を言うなら言え、自分には悪口を言われる種はないので、自分は間違った悪口など恐れないと、一種冒(おか)せない尊厳があるべきなのに、それが無くて、自分から人の噂を取り越して恐れるとは。
ああ誰か言う、「天に口なし、人をして言わしむ」と。又言う、「問うに落ちずして、語りに落ちる」と。ナイナは実にその例だ。
そうは言っても私は今は笹田折葉と言う名前からして、すでに偽りで固めた人物だ。偽りをもって偽りに対応する。だまされてばかりいるべきではない。自分からもだまさなければならないと思って、ぐっとナイナに味方するふりをして、
「いえ、夫人、不肖折葉が生きている間は決して貴方の悪口は言わせません。はい、指一つささせません。」と言った。ナイナはうれしくかつ有り難そうに笑ってうなずいたのを見すまして、更に「ですが、貴方は花里氏を嫌うとおっしゃるのは、それは本当の事ですか。」
「本当ですとも。あの人は口にも心にも少しも紳士らしいところが無く、その上に酒でも飲めば、まるでならず者ですもの。時によるとこの家に寄せ付けるのも嫌だと思います。はい、あの図々しさでは、どのようなことをしでかすかと、恐ろしくなる時も有ります。」
これだけはあるいは本音かも知れない。この頃のギドウの行為はあるいはナイナの目に余るところも有ったのだろう。私がほしいままに酒をすすめ、泥のように酔わせた時などは、いかにもならず者の本性を現し、他人の前には出せないほど泥酔して、ナイナの所に来ることも多かった。
私は心にこう思ったが、顔には出さず、非情に静かに非情に真面目にナイナの顔を見ると、ナイナはむしろ心配そうにその顔を少し青くし、そして先ほどよりは慰み半分に膝に乗せていたその編み物を持つ手先さえ、少し震えていた。私は少し表情をやわらげ、
「本当に貴方がギドウを嫌いなさるとなると。やれやれギドウはまあどんなに失望する事でしょう、可愛そうに。ですが、もう一方から考えると、私はそう聞いて本当にうれしく思います。」うれしいとは何がうれしい、私は心ありそうな意を込めて言うと、この意を汲めないナイナではない。熱心に首を伸ばして、
「ええ、貴方はうれしいとおっしゃいますか、おほほほ、ご冗談ばかり」
「いや、うれしいはずでしょう、ギドウが嫌われれば、今までギドウに遠慮して控えていた他の人も遠慮なく貴方の前に出て、心のたけをうち明けることもできるという計算ですもの。」
ナイナは一度はうれしそうに飛び立ったが、又すぐに絶望の色を示し、
「そうならば私も幸せですが、いけませんよ、いけませんよ。その私の前に出ようという他の人にはギドウが出ることができないように番人を頼んでありますもの。」
ああ、話はますます危うきに境に押し寄せようとしている。私は我ながら進行のあまりの早さに驚いて、少し無言のまま控えていると、ナイナは軽くため息をついて、
「私は花里さんの帰る前にこの土地を立ち去ろうかと思いますの。はい、いろいろ考えて見ますと、もう立ち去るほかはありません。」
「とはまたどういうわけで」
ナイナは両の頬を真っ赤にし、
「だって彼が帰ればどれほど私をいじめるか分かりませんもの。貴方にさえ、私を妻にすると言うほどですから、二度と彼に会わないようにこの土地を離れるのが近道です。」
私が「なんの彼やからが」と言わぬばかりに両の肩をいからせるのをナイナが見てとって、
「もっとも、貴方が保護してくださるので安心は安心ですが、それかとていつまでも貴方の保護を受けると言うわけにもいかないでしょうし」と言ってきた。私はこここそ、待ちに待った良い機会だ、逃がすべきでないと心を決め、一足椅子をすり寄せて、
「え、夫人、なぜ何時までも私の保護を受けるわけにはいかないのですか。貴方のお心一つでどうとでもなる事柄ですのに。」
ナイナもここに至っては、気が気でないように、椅子から半ば立とうとして又腰を下ろし、膝の上の編み物が我知らず落ちるままにして、
「え、私の心一つとは」
問い返す声も震え、かつそのように心配そうな腫れ物にさわるようなおずおずと用心を示す動作は、偽りなら非常な上手、本心なら非常な熱心、嘘か誠かの判断はただ読む人の随意に任せる。
私は心を石よりも堅くして、まず落ちたその編み物を拾ってうやうやしく夫人の膝に返し握らせて、その間も絶えず夫人の顔を見上げながら、十分落ち着いた声で 「はい、貴方の心一つで、何時までも私の保護が受けられます。生涯も一緒にいられます。さよう!私の妻になりさえすれば、」
ああ、今までの憂き苦労もこの短い一言を発すべき機会を熟させるためだけだった。思えばナイナの返事が気遣わしく、末の末まで考えて、今更ものに驚かなくなっている私の心にも動悸の波が高く打つのを感じた。
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