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白髪鬼
マリー・コレリ 著 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
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白髪鬼
(五十)
「私を愛すると言って顔を隠した。真から私を愛するか。私はその言葉の偽りなのを知っているが、何気なくナイナの手を取り、本当だと思ってうれしがる様子を示し、同じく小声で、
「え、私を愛しなさると、いえいえ、本当とは思われません。そのようなことは有りません。」
ナイナは少し頭を上げたが、まだ私の顔を見上げるほどにはなっていなく、十分に恥じらう様子を残して、「本当ですよ、初めてお目にかかった時、長くこの方とおつきあい申せば必ず愛することになるだろうと、なんだかそのような気がいたしました。私は夫ハピョをさえ愛せずに終わってしまいました。」
「はい、夫婦と言う名前はあっても私の方に真の愛情は有りませんでした。貴方はどことやらハピョに似たところが有りますけれど、お心の確かなことからすべてのなされ方がハピョに勝っており、二人とは世の中におられない方だと思います。こう申しても私の本心だとお取りくださるかくださらないかは分かりませんが、私の心だけは本心です。私が本当に男を愛するのはただ貴方が初めてです。」
貴方が初めてとの一言は確かにナイナがギドウに向かって吐いた言葉だった。初めてと言う事が二度も三度も有るはずがあるだろうか。よくも心にやましさを感じずにこのような言葉を何度も吐くことができるものだと私は胸が悪くなりながらも、私は機械的な味気ない声で、
「では、いよいよ私と夫婦になろうとおっしゃるか。」
「はい、夫婦になります。そうして伯爵」と言い掛けたが、すでに夫婦の約束をした上は伯爵などの尊称は呼ばずにその名を呼ぶのが情の親しさを示すものなので、
「いや、折葉、貴方の名前は折葉でしたね。」とおそるおそる問いかけた。 「私は折葉と言いますから、貴方も私をナイナと呼び捨てにしてください。」早くもいくらか言葉の調子までなれなれしくするのは、怪しむほどのことではないとは言え、私は異様な気がした。
「では折葉、今は私を愛さなくても今に貴方の心の中に十分な愛情ができ、十分私を愛するように、どれ私はして上げます。」と言い、そのしなやかな体を早くも私の体にすがるように巣作りをして恐ろしいほど愛らしいその顔を満面私に眺めさせながら、
「キスなさい、さ、キスしてください」と言って唇を上げて待つ様子、かってこの女がギドウに向かってこのようにしたことと異ならなかった。私はほとんど脳髄に旋風(つむじかぜ)が吹き起こったかと疑るほどのめまいがし、目がくらみながらも逃げるに逃げられない場面に、うつむきかかって我が唇を接したが、その辛さ、その嫌さは毒蛇の口をなめるよりまだ一層嫌な思いだった。
この悪女め、ここまでの偽りを持って私を愚弄し、私にここまでの辛い思いをさせるかと思うと今は腹が立って仕方がない。その体を抱き上げ、又元の椅子に押し返しながら、怒りを含んだ鋭い声で、
「真実、私を愛するとおっしゃるか。」
「はい、真実でなくてこのようなことが言われましょうか。また、できましょうか」
「それでは、男を真に愛するのは私が初めてですか。」
「はい、初めてです。」
「ギドウを愛したことはありませんか。」
「けっして、けっして」
「彼はかって私が今したように、貴方を接吻したことはありませんか。」
「ただの一度もありません。」
したがって問えばしたがって答える。その言葉のさわやかなことは偽りとは思われないばかりか、本心としても普通の婦人にはこれほどまでにはできないだろう。私はあたかも、田舎者があの何色ものハンカチを口の中から吹き出す手品師に驚いてその口元を眺めるように、しばらくはただナイナの口つきを見ているだけだった。
が、ようやく我にかえり、まずナイナの細い手を取り、私が昔ハピョだった頃、その指にはめた比翼の指輪をそろそろと抜きはずし、その後に前からこのような時の用意のために作って持っていた、貴重なダイヤモンドの指輪をはめて返すと、ナイナは千金の賜物よりもっとうれしそうに飛び上がり、
「おお、なんときれいなこと、貴方は本当にもったいないほど私を良くしてくださいます。」と言い、横から斜めに顔を出して私にキスをし、そのまま柔らかく私にもたれかかりながら、他愛もなく手を上げて指輪の光を透し見ていたが、やがて何やら少し心配そうな様子で、
「この結婚の約束は何時ご披露なされます。」と聞き、これだけではまだ自分の考えが伝わらないと言うように、更に又、
「すぐには花里魏堂氏にはーーーー知らせてやりはしないでしょうね。」
心配の有るところは十分に明らかなので、私はわざと安心させるため、
「はい、知らせてやると、彼は驚いてすぐ帰るかも知れませんから、まずは、彼が帰るまでは知らさないで置きましょう。」
ナイナは十分満足し、ただ、余りの喜ばしさのためうっとりとして何もかも忘れたように、しばらくの間は私と顔を見合わせて微笑むだけだった。
もしもナイナは私が実は前に自分が欺いた真の夫ハピョであることを知ったら、こんなに微笑むこともなかっただろうにと、「神ならぬ身の露知らず」とは実にナイナの今の身の上のことを言うのだろう。
このようにして数時間過ごした後、ナイナは急に身を起こし、その目に測り知れないなまめかしさを浮かべて私を見上げ、
「ですがね、私はただ一つお願いがあります。いいえ、お願いというのも変ですが、本当につまらない事柄ですけど、」
私は真面目に、
「いや、そのように言わなくても、貴方の思うことなら何なりと、はい、もう少しの遠慮も有りませんから、」と励ますと、ナイナはまたほほ笑み、
「実はですね、少しの間そのサングラスをはずして欲しいのです。貴方のお目をめがね無しで見せて頂きたいのです。」
私は無理もないこの願いに驚いて思わず椅子から立ち上がった。
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