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白髪鬼
マリー・コレリ 著 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
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白髪鬼
(六十八)
哀れみの心が起こりはしたが、積もりに積もった私の恨みは、この時また異様に湧き出て来た。彼を哀れむくらいならばこの復讐は計画しなかった。彼は実際、ずたずたに私に殺されてもまだ償いきれないほどの罪が有るのではないか。彼の心がまだその罪を悔いているのかいないのかさえも分からないのに、私はどうして彼を哀れむ必要があるのだ。
私は確かな声で彼ギドウの問に答え、
「これ、ギドウ、お前は聞くまでもなく私を知っている筈だ。私の声を聞け。私の姿を見よ。頭の毛こそ白くなったが、昨年までお前が親友とへつらったハピョだ。ハピョ・ロウマナイだ。お前は今も忘れてはいないだろう。」
「お前は私の妻を盗んだではないか。私の家名をけがし、私の財産をかすめ取り、私の名誉を死後までも踏みにじったお前の罪がこれくらいで無くなると思うか。さ、恨みに変わったハピョの顔つきを見て思い知れ。」と言いながら、私は再びめがねを外すと、復讐に凝り固まる私の目から発する光は彼の目には太陽よりも更にまばゆいのか、彼は見返すことができなかった。
その顔をそむけようとしても、体が動かず、ぶるぶると身を震わして目を閉じ、しばらく何事かを念じる様子だったが、ようやくその定まらない目を開き、「ハピョ!、ハピョ!そんな筈はない。ハピョは死んだ。墓倉に葬られた。棺にに入ったその姿まで見届けたのに。」
ああ、彼はまだ私をハピョだとは信じないのか。否、必ずしも信じないわけではないが、ただ、死んで葬られたハピョがどうして生き返ることができたのかと怪しんでいるのだ。私は一層彼に迫り寄り、
「私は葬られたが、生きたまま葬られたのだ。棺の中で正気に返り、墓倉を破って出て来たのだ。その間のつらさ切なさはくだくだとここで言っても及ばないことだ。ただ我が家に帰って我妻やお前に迎えられるのを楽しみに帰って行き、目の当たりにお前と妻の偽りを見た私の悔しさ、腹立たしさが性根の腐ったお前には分からないか。これ、魏奴、偽り者」と言い、
またも鋭く彼をにらむと、彼は、魂の底の底から恐ろしさが襲って来たように動かない体をもがき、もし隠れるところが有ればその姿を消しても隠れようと思うように、ただ縮込むだけで、見る見るうちにその額に脂汗を浮かべた。
私もここに来ては神経はあたかも張り切った弓のようで、裂け切れるばかりで少しの感じもひどく響き、我ながら気が狂う間際かと疑われる。
しかし、彼の様子に一方ならない悔恨の色、自ずから現れて来たので、私はハンケチの端を持って静かに彼の額を拭き、このようにして自ずから我が神経を静め、更に又その一端にあの医師が瓶のまま残して行ったブランデーを浸し、彼の唇を潤してやった。
私はただ何となく両目に涙が満ちて来るのを感じた。これはうれしさのためか悲しさのためか、それともギドウを哀れむためか、自分でもそのどちらかは分からないが、数ヶ月の艱難辛苦でようやく我が思いを果たした今となっては、すなわち我が身に妻も子もなく、友もなく家もなく、長らえる甲斐もない非常に浅ましい時であるかと思えば、感極まって泣かない訳にはいかない。そうは言っても今は泣くに泣けない場合なので、私は強いて口の端に笑みを浮かべ、
「ギドウ、おまえも知っているあの裏庭の私がいつも読書していた腰掛けの所でまで行き、私は確かにお前を見た。お前とナイナの偽りを見た。私が死んだと思われている、その翌日の晩なのに、お前は私が腰を下ろした通りに私の腰掛けに腰を下ろし、しかもナイナを膝に抱き、ナイナの細い手をもてあそび、私をそしり、私を嘲り、そして、ナイナの機嫌を取り、接吻までしたことは隠しても隠し切れない。」
「その時一間(2m)と離れていない横手にしゃがみ込み、お前とナイナのする事を見て、踊り出すこともせず、じっと控えていた私の心をどう思う。お前が昨夜私とナイナの結婚を聞いた時にも比べて見ろ。お前は満座の中も恥じず私に躍りかかったではないか。」
「お前さえ私に復讐を企むのに、私がお前とナイナに復讐をせずにいられようか。これを見ろ、その時ナイナとお前が胸に挿していた一対のあの花は、私がローマの朝廷から贈られたバラの花。私はお前達の後ろに回り、後の証拠にと、落ちて散ったその花を拾い、今もまだ持っている。」と言いながら、私はあれ以来我がポケットに入れて離さない、しなびた花びらを取り出して、静かに彼の目元に置くと、さすがの彼も、もはや一語の言い訳もなく、今は死に際の善心に立ち返ったのか、
「ハピョ、ハピョ、あやまった。恐れ入った。」と繰り返すその声も虫の息だった。
彼はしばらくして又少し頭を上げ、「ですが、ナイナは、いや夫人は貴方を元の夫だと知っていますか。」これはまだ彼の汚れた魂をうろつく疑いなのだろう。
「いや、まだ知らない。しかし、私の憎しみはお前より更にナイナに積もっているから、近々結婚すればすぐに私の正体を知らせてくれる。」
この一語に彼は天にも地にも身の置き所が無いほどにおののきながら、
「おお、神よ」と祈り始めたが、心が定まらないのでその祈りは言葉にならず、「恐ろしい、お許しください。助けて、助けて」と叫んだちょうどその時、傷口からどうっと血潮がほとばしり、その後の言葉を続けることができず、見る見るうちにその息づかいが弱くなり、顔も次第に血の色を失って来た。これが臨終の様子だった。
しかし、まだ彼は力無い目で私を見上げながら、片手を伸ばして何かを握ろうとする様子だった。私はその意を悟り、私の手を出して握らせると、彼は引き締めて自分の罪が許されることを願っているようだった。私は今までより非常に穏やかに、
「それから後のことはお前も知っている通りだ。私の復讐を思い知ったか。え、私の心が分かったか。しかし、ギドウ、これで何もかも済んでしまった。もう、恨みも消えたから私の心はお前の罪を許してやる。どうか、神にもその罪を許して貰え。」と言うと、彼は始めて善心の安心を得たのか、血の気のない唇に非常にか弱い笑みを浮かべた。
その笑みは昔我が愛を得た幼年時代の罪ない笑いで、深く私の心にしみこんだ。彼は私の顔が少し和らいだのを見て、かすかなうめき声で、
「ああ、何もかも済んでしまった。神よ、ハピョよ、本当に許してくれ。」と言ったがそれも終わらない中にたちまち全身に強い痙攣(けいれん)を引き起こし、横様にそり倒れて、長く震える息を名残に彼は全くこと切れた。
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