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白髪鬼
マリー・コレリ 著 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
2009.12.14
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白髪鬼
(九)
それから私はひたすら町の方を目指して歩き始めたが、何ぶんにも大病の後のこと、特に体も心も非常に苦しめたため、いくらか目がくらむ気もする。足も十分の力はないが、これらは妻ナイナの細い手で1日2日介抱されれば、すぐに治ることと思い、ただこの世に出られたことのうれしさだけで、歩きに歩いてようやく町の入り口に着いた。
ふと思いばいくら妻子を喜ばせるためとは言え、このままでは帰りづらい。上着を着ていない我が身の異様さはかまわないとしても、私のシャツ、私のズボンにはまだ伝染病の毒が残っているかも知れない。とにかく出来合の洋服でも買い、体を一通り洗い清め、万一にも妻子に病気が移らないようにだけはして、帰って行こう。こう思ってどこかに古着屋は無いかと見回すと、町の入り口から数軒目に沢山の洋服をつり下げた、店があるのが見えた。
これだと喜んでその店に入り、似合った古着を見せてくれと言って中にはいると、年60をも越えたかと思われる老主人が出迎え、流行病がはやっているので、古着は死人の服だろうと疑われるのから、一切置いていないと言い、さらに、この店は、水夫専門の店なので、水夫の服以外は置いていないと言う。
私はただ我が家に着て帰るだけのことなので、水夫の服でも嫌がる理由はなく、そこで大きさの適当な物を選び出そうとすると、主人は色々な品を持ち出しながら、話を始め「いやもうこの頃のように悪疫がはやりますと誰でも心細くなります。貧乏人ばかりが病みつくかと思いばそうでもなく、すでに昨日は当府第一の豪家と言われるロウマナイ家の主人ハピョ様が死にましてね、粗末な棺に入れてすぐ葬ってしまいましたが、あのような方でも病みつくときには病みつきますからね、どのように予防したらいいのかさっぱり分かりません。」と言う。
さては、私の死んだことは、すでに町中の噂になっているのか、それにしても、この主人が私を見知らないのはどうしてだろうと不思議に思い、「おお、ハピョとはどう言う人だい。お前さんは良く知っているのかい。」「いや、私の方では何度も姿を見て知っていますが、先様ではご存知ありますまい。」ハピョの姿を見知っている者が今当の本人を目の前に置いて気付かないとはますます不思議なことだ。私は顔色が変わったかと思うほど怪しんだが強いて何気ない素振りを装い、「それでは、日頃は元気な人だったのかい。どんな姿で、年は何歳くらいだったのだい。」
主人は私の顔を十分見上げて、「ははあ、ハピョ様をご存じ無いとは、貴方は他の土地からお出でなさったと見えますな。この土地でハピョ様と言えば知らない人はおりませんよ。そうですね、背丈は丁度貴方くらいで、肩幅から格好もだいたい貴方と似ていますよ。顔もなかなか立派ですが、先ず、貴方を30くらい若くしたようなものです。」「これこれ、私は当年27才なのに、30も若くしたら生まれる前の人となるが。」
この主人、気でも違ったかと思い私は彼の顔をじっと見ると、彼は全くまじめだった。私はますます納得できずしばらく返事もしないでいると、主人は更に言葉を継いで「ですけれど、ハピョ様もお死にになったのが結局幸せだったかも知れません。長生きしたら、奥様が奥様ですから、とても幸せな事はなかったでしょう。」
「私と同様に、世の中がつまらないと言うようになるところだったでしょう。」と何やら述懐らしいことを言い出し、商人にも似つかわしくなく、ふさぎ込む様子だった。私は心の底から異様な気がして「奥様が奥様とはどういうことだ、え、主人」と更になにげない声で聞くと、「いや、ハピョ様はこの上ない善人ですが、奥様はどうも良くない方のように思われます。」
奥様とは私の妻ナイナを指している。ナイナを良くない方とは、この主人いよいよ気が違ったかと思えた。それにしても、彼はなぜ、このような考えに至ったのだろうか。彼が適当な服を選び出すまで聞きただすのも一興と思い、「奥様がどうかしたのか。」「どうしなくても、あの笑顔が悪いのです。男の目には天女のように見えますが、この頃は天女でも油断がなりません。」
「とは又どう言うわけで」「いや、何も良く知らない私があの奥様を悪く言うことは有りませんが、それでも、その仕打ちがハビョ様の奥方らしくないから言うのです。もっとも、過ぎ去ったことですが。」「え、過ぎ去ったことがどうした。」「はい、私もいくらか悔しいから、その当座は来るお客様にこれこれだと皆話しましたが、実は、昨年の末でしたか、私が荷を背負って歩いていますと、後ろから駆けてきた馬車があって、私を蹴り倒しました。」
さては、この馬車にナイナが乗っていたため、この老人はこのように恨んでいるのだろう。「私は幸い怪我もしませんでしたので、すぐ起きあがって馬車の中を覗くとその奥方が乗っていました。」そうかそうか、「ねえ、旦那、老人を蹴飛ばしたらなんか一言くらい言っても良さそうなものではないですか。奥方は、馬車の中から起きあがる私を見て面白そうにニッと笑いました。はい、それきりで馬車を走らせて立ち去ってしまいました。え、旦那、余りにひどいじゃありませんか。」
「それはなるほど、貴婦人にあるまじき振る舞いだが、しかし、奥方は蹴倒したことを知らなかったのではないか。」「なに、十分見て知っていたのです。ですが、私が悪いというのはそのことではありません。その時の笑顔です。まるで、小児が笑うようなごく罪のない愛らしい笑顔でしたが、それでも、その中に悪魔の心がこもっています。私は一目見て、ああ、見かけに寄らず悪い女だと思いました。もし、ハピョ様がこの後長く生きていたなら、必ずあの女に欺かれます。はい、あのような笑い方をする女は決して心が純真ではありません。私は懲(こ)りています。」
私はますます老人の言うことが何の根拠も無いものだと知ったが、懲りていますとのただ一言が何か耳に障(さわ)ったので「懲りてとは何に懲りたのだ。」と聞き返した。