巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

hanaayame10

      椿説 花あやめ     

作者 バアサ・エム・クレイ女史 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳

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        椿説 花あやめ     黒岩涙香 訳

          十 蓋(けだ)し見ものだ 

 草村松子、その母は草村夫人、利子の方と称せられるのだ。
 夫の生存中は、金の中に転がるほど贅沢に暮らし、万事の掛引きに巧みな丈、社交界にも余ほど幅を利かせて居たとの事であるが、今は寡婦(ごけ)の身となり、夫の遺した株券から上がる多くも無い所得を命の綱とし、娘松子を育てつつ、辛々に昔の対面だけを支えて居る。

 何でも此の夫人に取っては、対面を支えると云う事が何よりも大切で、一瓶ニ圓(現在の4万円)の葡萄酒を用いても、廿圓のを用ひて居る様な顔をして居なければ成らない。とても外の婦人には真似の出来ない所だけれど、その代わり此の夫人は一圓の札を十圓に見せ掛ける術を知っている。

 他の人が千圓で異(かわ)り色の服を拵(こしら)えれば、此の夫人は百圓未満で、それに好く似た服を作り、一歩も流行に後れない見栄えにして居る。その代わり、何うかすると舞踏の時、人に裾(すそ)を踏まれて、イヤ踏まれると云う程は踏まれれないのに、ピリリと裂ける事がある。その裂けた切れ目が着物の年齢を白状し相に見えると直ぐ自分の達者な口で、

 『何うも私は着物を大事にする事を知りませんので。』
と、幾等着物を粗末にしても差し支えの無い身体(からだ)か何ぞの様に仄めかせ。併し自分の口よりは矢張り着物の切れ目の口が雄弁だと見え、此の節では大抵の紳士貴婦人が夫人の裳(すそ)を踏み破るのを恐れる為、余り夫人の傍に来ない。

 したがって招待状を送る事なども薄らぎ、次第次第に何だか社交界へ縁が遠く成り掛けて居る。併し此の縁の遠くなるのが此の夫人には何よりも辛い。先が疎(うと)めば疎む丈け、益々此方から求めもする。益々見栄を飾ろうともする。

 事情を知る人は気の毒にも思い、きっと懐事情が辛いのだろう、早く交際場から身を退(ひ)けば好かろうにと云うけれど、身を退くのは破産より、辛いと思って居る。交際さへして居れば、自分の娘へ立派な婿が出来るだろうと思って居る。

 ここが子の心親知らずと云う者で、仲々娘松子は母の言いなり次第に何の様な所天をでも、持つと云う様な質では無い。母夫人とは似ても付かないほど優れた考えを持っている。兎も角も確かな了見の有る娘である。けれど母夫人は驚かない。若し娘に所天が出来なくても、自分の方へ夫が出来るかも知れないと思って居る。成るほど是では社交界を退かれない。

 その代わり此の夫人が自分の家の内で、物事を大事にする事は又驚くばかりだ。
 『着物を大事にする事を知りません。』
などとは全くの反対で、着物の裾へ跳ねた泥は、帰って来るが否や自分の口で吸って取る。着物の浸斑(しみ)を抜いて乾かすには、人間の肌の温かみに限ると確信して、三、四時間も只(ひた)と着物を抱いて居る事も有る。

 そうして台所の麺麭(ぱん)の片(きれ)までも、一々に数を検(あらた)め、人の頭数に割り当てて帳面へ記(つ)けて置く。男だったら会計検査院の長官に適任だろうに、惜しい者だ。大英帝国広しと雖も、是ほど家事経済の上手な人は余り居ない。是れなればこそ、僅かの所得で外見を張って行かれるのだ。

 今に必ず一度の食事で、二度分の腹を肥やす奇術を発明するだろう。
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 子爵はこうまで詳しく聞くことはできなかったが、兎に角此の夫人が娘松子と共に別に非難も無く、清く暮らして居る事を聞いた。清く暮らす事が何よりも貴(たっと)い事だから、親類としてその娘を、又は母を、或いは母子諸共を、蔵戸家へ招いても差支い無いと思い、大いに喜んで、先ず一通りの手紙を夫人に送った。

 それは極めて簡単な文句で、唯だ此の度、用事が有って倫敦(ロンドン)へ来たので、序(ついで)ながらに近日、私からお尋ね申すと云う丈である。用事より外に何の意味をも含んで居ない。所が直ぐに、折り返して返事が来た。

 その表封には黒い輪郭が附いて居る。云う迄も無く、黒縁の状袋は、喪と云う事に用いるので、子爵の家の太郎次郎の不幸に同情を表し、親類として悲しみますと云う意味が、それと無く籠って居るのだ。どうしてその署名を見ると、
 『草村夫人利子』
の下に『旧姓葉井田』と括弧入りで記して有る。

 抑々(そもそも)『葉井田』と云うのは蔵戸家の分かれ名である。蔵戸家に生まれて蔵戸の姓を名乗らない事となる人が、通例用いる所である。だから『旧姓葉井田と云うのは、此の草村家へ嫁入って来る前は、蔵戸家の分かれで有りましたと云うのと同じだ。

 是で愈々(いよいよ)黒い輪郭の意味も引き立つ。旧姓が葉井田であれば、蔵戸家の今の不幸を、我が家の不幸として、悲しむに不思議は無い。不思議は無いが、実は必要も無い事である。何しろ四代も前に蔵戸家から分かれて、その後が音信不通で、法律家が綿密に取り調べる迄は、誰も忘れて居た程である。

 それを此の夫人は明らかに覚えて居て、喪にまで服して居る殊勝な次第だ。子爵は之を見て微笑んだ。
 『アア春川家の主人は、己に逢うのを面倒で成らない様に避けて居たが、草村家の女主人はそうで無いと見える。』

 そうで無いドコロでは無い。子爵を迎えるが為に、何れほど工夫を廻らせて居るかも知れない。此の対面は蓋(けだし)《多分》見ものだ。

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