巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

hanaayame14

         椿説 花あやめ     

作者 バアサ・エム・クレイ女史 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳

since 2022.7.15

下の文字サイズの大をクリックして大きい文字にしてお読みください

文字サイズ:

a:86 t:1 y:0

         十四 唯一つ合点の行かぬ

 是より子爵は、大方毎日の様に草村家を訪問したが、その噂が社交界に聞こえると、傾き掛けて居た草村夫人の信用が、俄(にわか)に回復して、殆ど昔の盛んで有った頃の様に、方々から招待状が集まる事に成った。

 何うしてこう急に噂が広まったかと思えば、それは無理も無い。子爵の立ち去った後で、一々夫人が子爵の来た事を、貴婦人雑誌へ投書して居た。何しろ今まで久しい間、社交界からの招状に餓(う)え、招かれさえすれば必ず行く様にして居たのが、此の頃では招状の高下を選り分け、値打ちの低い方は断ると云う、贅沢な味を嘗める事が出来て来た。但しその断り手紙には、
 『蔵戸子爵と先約ある為』
と云う文句を必ず書き入れたことは無論である。

 このようにして、十日も経た頃には、子爵と松子との間に、余ほど馴染みが深くなった。松子は日頃、父の愛に渇(かっ)し、唯だ気質の合わない母親と衝突ばかりして居たのが、真に気位の高い、親切な、清潔な子爵に逢ったものだから、知らず知らず、子爵を父の様に慕う心も出来、蔵戸荘へ逗留に行くと云う事を、楽しい様に感じて来た。

 併し松子の気風に、唯だ一つ子爵の合点の行かない所があった。それは何だ。外でも無い、春川梅子に比べて、何所にか控え目に見える所が有るのだ。梅子の方は、真に頼り無い身の上で有る為でも有ろうが、何も彼も子爵に縋(すが)り、少しも隠し立てなどして
居る様な所が無かった。

 梅子の顔を見ると、綺麗にその腹の中までが透き通って見える様に感じた。松子の方はそうで無い。何だか子爵に見え透かすことの出来ない所が有る。之は未だ松子が、打ち明ける事が足りないのだ。

 或る程度までは充分に打ち明けるけれど、その程度から先は塀を築いて、入り込ませないと云う風がある。一つは松子が独立の気象に富み、そうまで人に縋るとか、打ち明けるとかする事が天性出来ない為でも有ろう。又一つは、傍から母が掣肘(せいちゅう)する為でも有ろうけれど、何か心の底に曰く言い難い所の者が有るのではないだろうか。

 心の底の底へ大事にして、納(しま)って置く者が有って、それを誰にも見せては成らないと、知らず知らず勤めて居る為では無いだろうか。
 子爵はそうとまでも、深く見て取る事は出来ないけれど、何だかその隔てが気に成って、折々に若し松子が梅子の様に打ち解ける天性で有って呉れれば好かろうにと思った事もある。

 その代わり又松子には、一つ梅子に無い長所が有る。それは天然に音声が美しく、且つ音楽に巧みな一事である。梅子の方も、話しする声など聞くと、宛(まる)で鶯の初音の様で有ったから、多分は謡(うた)う声も見事で、或いは楽器を奏でる事にも妙を得ているかも知れない。

 併しノスヒルドで二十日ほど逗留して居る間に、梅子の謡うのも音楽を奏するのも聞かなかった。多分はその芸を修めて居ないので有ろう。縦(よ)し修めて居た所で、松子ほどは修めて居ず、人に向かって、修めて居ると名乗るほどをも修めて居ないのでは無かろうか。

 松子の方はそうで無い。尤も之も自分からは、云わなかったが、母御の自慢話が本で、到頭子爵の前で謡い奏でる事に成った。全く松子の此の声の技は、玄人(くろうと)にも近いと云い度いが、実は玄人でも是ほどには行かないのは幾等でもある。

 兎に角、松子は、最早や子爵に取って、無くて成らない身とは成った。松子が居なければ、子爵は自分の身が居ると思うことが出来ないのだ。併しこうまで成ったのに、松子の心の底に、見え透かせずに潜んで居る隔ての様な者は、何で有ろう。

 之れは子爵も察しなけれ成らない。松子は梅子より年が一つ上である。そうしてノスヒルドの様な静かな土地とは違い、華美(はで)な都に住み、華美な人々と交じり、若い娘の心を動かす様な場合ばかりに接して居る。

 幾等心の確かな女だとても、最早や年頃でも有り、何か心に思い定めた事が有るのでは有るまいか。有るとしても怪しむには足りない。又その思い定めた者が、身分に相当し、且つは充分信任するにも足る様な質であれば、何も心配するには及ばない。

 却ってそれが為にその身まで良く定まるかも知れない。後々の幸福もその方面から来るかも知れない。けれど子爵はこうと迄は察する事が出来ない。唯だ怪しむのみである。

 此の少しの気掛かりが有るが為に、丁度松子と梅子とが子爵の心の中で、同じ重きを支えて居る。幾度子爵は二人の事を思い比べて見るか知れない。何方が我が家の後取りに適当だろう。

 梅子の事を思い出すと、梅子ほど愛らしい、美しい、そうして心栄えの好い、而(しか)も憐れむべき者は無い様に思われ、更に松子の方を思って見ると、是も天然に蔵戸家の相続人として生まれて居る様に思われ、もう梅子の事は忘れても好いと云う程の気もする。

 何方にしよう。何方を余計大事にしよう。到底決する事が出来ない。
 ナニ是は今決するには及ばない事。二人を蔵戸家に迎えて逗留させ、葉井田夫人に見せ、瓜首にも見せなどすれば、その間に自ずから優劣が分かって来よう。

 少しも慌(あわて)て惑う事は無いと、こう安心はする者の、若しも松子の方が落第するかと思うと、気の毒の念に堪えず、又若し梅子が落第するかもと思って考えて見ると、泣き度い様な気に成って来る。
 実に困った難題が出来たものだ。



次(十五)花あやめ へ

a:86 t:1 y:0

powered by Quick Homepage Maker 5.1
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional

巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花