hanaayame15
椿説 花あやめ
作者 バアサ・エム・クレイ女史 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
since 2022.7.15
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十五 驢馬の比喩(たとへ)
昔々話に『空腹な驢馬』と云う比喩が有る。今、蔵戸子爵が丁度その様な者では有るまいか。
腹が空いて倒れ相になった驢馬が、何所かに、食う草は生えて居まいかと思い、尋ね尋ね歩んで行くと、忽(たちま)ち道の両側に、何とも譬え様の無いほど旨相(うまそう)な草が沢山、沢山、茂って居た。
ヤレ嬉しや、之で命が助かったと、奴さんは早や口に涎(つば)を一ぱい溜まらせたが、扨(さ)て何方側の草を食おうと比べて見ると、右も非常に好い、左も非常に好い、何方にしようと心が両方に迷い、只だ思案に暮れるうちに腹は段々に空く。
それでも到底双方の優劣が分からない。エエ何だって何方かの草がもっと痩せて居て呉れないだろうと、恨んで泣き暮らしたと云う事だ。
梅子か松子か、何方でも少し劣って居て呉れさえすれば、何も子爵はこうは惑わないのに、両方とも美しいが上にも美しく、心栄えも、縦(たと)え善い所が互いに違って居るにしても、悪い所は少しも無い。無傷の玉と玉の様な者だ。到底選り定めることが出来ないから、仕方が無い。
屋敷へ招いて逗留させ、多くの人に逢わせるうちには、終に優劣が分かって来るだろうと心に頼み、倫敦(ロンドン)を引き上げた。それは初めて松子に逢ってから十五日目であった。もっとも引き上げる時に、矢張り置き土産だと云って、一包の何やらを松子の母に与え、
『何うか私の無遠慮を咎めない様に仕て下さい。』
と呉々も詫びる様に云って去った。その後で松子の母が包を開くと、何も腹の立つ事では無い。衣服地として二千圓(現在の二千万円)の金が入って居た。梅子へは千五百圓で有ったけれど、松子の方は母をも勘定に入れて殖やしたのだろう。母夫人は咎めるどころか頬の框(かまち)から先ず崩(くず)れて、
『本当に貴族らしい貴族とは蔵戸子爵ですよ。』
と叫んだ。
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それはそうとして置いて、松子の腹の中に、少し見透(とお)せ無い所が有る様に思われるのは何であろう。子爵に聞かせては、少し疵(きず)になる様な事柄では無いだろうか。イヤそうでは無い。松子の気風が、決して恥ずべき事柄を蓄えて居る様な質(たち)では無い。却(かえ)って自分では、自慢しても好い様に思い、俯仰(ふぎょう)天地に恥じず《やましいことは無い》とか云う程の気で居るのだけれど、事情が有って隠して居る。ここにその事を記して置こうか。
実は松子が十六の夏で有った。母御は土用の暑さに、避暑の地へも行かずに、倫敦に居るのは、貴婦人の資格にも障(さわ)る様に思い、誰か我が別荘に来いとでも、招いて呉れる人は無かろうかと、梅雨の頃から、例年の通り八方へ運動したが、此の年はその甲斐が有って、仏国(フランス)の或る贅沢家から招かれた。
丁度その際に、好い時には好い事の来る者で、又他から同じ様な招きが有った。それを断っては後々に障(さわ)ると思い、自分だけ仏国(フランス)の方へ行き、松子を一方の招きに応ぜさせる事にした。こう話が極まって松子の方は、母より一日先に家を出て、指して行った所を何処かと云えば、倫敦(ロンドン)から汽車で半日で行かれる、或る山辺の別荘で、主人は弓澤と云う宗教家で有った。
その家で松子は、朝は牧場に出て露の涼しい草を踏んだり、昼は林に入って、緑も匂(にお)う樹間(このま)の風に吹かれたり、殆ど天国に入った思いで遊び暮らしたが、折好くか折悪しくか、その所へ主人の遠い縁に繋がるとやらで、弓澤民雄と云う学生上がりの若者が、之も夏のうち逗留すると言って遣って来た。
此の者は親に譲られる身代《財産》も無く、何しても自分で立身出世をしなければ成らない身の上と云う事で、秋になれば倫敦(ロンドン)で弁護士を開業するに定まって居た。
年はその時が二十二歳で、松子とは六歳(むっつ)違うけれど、何しろ双方とも話相手の無い田舎だから、若い者同士とて直ぐに親密と為り、そうして夏が終わって分かれる時には、何にも譯は無いけれど、末は夫婦と云う約束が出来て居た。
勿論訳は無い。訳は無いけれど、両人とも世間知らず、向こう見ずの年頃だから、真に深く思い合って、此の人の外に人は無いと云う程の心になった。それから倫敦へ帰ると、間も無く弓澤民雄は弁護士事務所を開いたと云う事で、直ぐに松子の許を尋ねて来て、母夫人に向かい、松子を妻に呉れと言い込んだ。
その時の夫人の立腹は見物であった。前から松子には爵位の有る所天(おっと)を持たせ、自分の地位と名誉とを引き上げようと云う考えで、それのみを楽しみにして居る母だから、松子が地位も財産も無い書生と、夫婦約束をしたと知っては、命より大切な宝を盗まれた様に感じ、達者な口先で、有らん限りの悪口を民雄の顔へ吹き掛けて追い払った。
そうしてその後で直ぐに松子を呼び、此の上の叱り様は無い程に叱り附けた。けれど松子は、年よりも長けた思考の持ち主で、何しても民雄を思い切ると云わない。是れが母と松子との衝突の初めで、その後は今に至るも、母子の間に何だか物の介(はさま)った様な感じが残って居る。
何でも二十歳を過ぐれば、女は自分で所天(おっと)を選ぶ権利が出来るのだから、その時を待って弓澤民雄の妻になると、堅い決心が今でも松子の腹に在り、そうして民雄の方も、松子に見込まれた男だけ有って、今時の若者に比べると、余ほどその気象の優れた質(たち)で、何しても松子を妻にしなければとの、大決心に励まされ、兎も角自分の位地を作る様に、一生懸命に勉強して居る。
その甲斐が有って、今では若き弁護士中に名も高くなり、此の者こそは将来、独立主義を押し通した、平民界の偉人とも立てられる事になるだろうと、知人の先輩方から嘱望され、此の頃では余ほど前途が晴れやかに成って来た。
けれど草村夫人に取っては、矢張りげじげじの様な思いである。若し押し潰して摘(つま)み捨てることが出来る者ならと、時々夫人は呟くのだ。
松子の心の底の蟠盤(ばんばん)《わだかまり》は是である。
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