hanaayame16
椿説 花あやめ
作者 バアサ・エム・クレイ女史 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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十六 イヤ爾(そ)うは行きません
松子は胸の此の蟠盤(わだかま)りを蔵戸子爵に打ち明けようかと思った事もある。全く子爵が自分の子の様に傷(いたわ)って呉れ、殆ど父の慈非を持って居る程に見える時も有るので、折々は母の気質と子爵の気質とを思い比べ、母には何事を云ったとて無益だけれど、子爵ならばその広い優しい胸の中で、良く此の身の心を察して呉れ、母の心が和(やわ)らぐ様に、説諭までも仕て呉れようかと、此れほどにも思ったけれど、或る時子爵が、
『若し太郎と次郎が生きて居れば、丁度貴女と梅子とを二人の妻に貰い受けますのに。』
と云ったので、松子の気は挫けた。此の様にまで心配して居る方へ、又も自分の心配を打ち明けて、荷を負わせるのは気の毒である。今云わなくても又、何時か云う時が来るだろうと、思い直して口を噤(つぐ)んだのが、言いそびれた本であった。
或いはその時に思い切って云って置いた方が、自分の為にも子爵の為にも好かったのかも知れない。
けれど今更仕方が無い。そうして子爵は、間も無く蔵戸荘へ帰ってしまった。こう子爵に分かれて見ると、何れほど子爵が自分の心を慰めて居て呉れたかと云う事が良く分かる。
何だか父にでも分かれた様な気がして、蔵戸家へ逗留に行く日が待ち遠しい様に思われる。併し愈々(いよいよ)行くにしては、弓澤民雄に事の次第を打ち明けて、篤(とく)と承知させて置かなければ成らない。
手紙では心も尽くさず、又民雄から返事が来た時に、今まで例の有った通り、母にその返書を没収される恐れも有る。何うか直々に逢う事は出来ないだろうかと、只管(ひたす)ら心を砕いて居たが、天の助けかやっとその場合いが有った。
場合とは外で無い。民雄が或る重い罪人を弁護して、とても見込みが無いと先輩から云われるのを、単に自分一人の力で美事(みごと)に無罪にした。その弁護の旨(うま)かった事は近頃の法廷に類が無いと言って、新聞紙にも伝えられ、同業にも噂さされた。
是が民雄の本当の立身の基が立ったと云う者で、是からは色々な法律事務が、民雄の手に転がって来るに違いない。そうすれば一時に所得も増し、名誉ある先輩と肩を並べる事も出来て来る。すでにその弁護の終わった翌日から、夜会などの招待も、ずっと増えた。
今までは偶(たま)に招かれても、草村夫人の招かれる様な方面とは段が違い、未だ社交界と云うに足りない様な、相手のみで有ったが、今度は多少身分の高い所からまで、招かれる事に成った。
その中の一つは、大判事デボン卿からの招きである。卿は民雄のこの度の弁護の仕方に甚(ひど)く感心し、
『アア漸(ようや)く俺の未来の後任者が現れた。』
とまでに云い、例年十月の末に催す自家の大パーティーの客の中へ、民雄を加えた。
丁度此のパーティーが、松子の蔵戸荘へ立つ前々夜で有った。松子は此のごろ、民雄の名が高くなった為め、事に依ると此の席で逢う事が出来ようかと、思う心を押し隠して、母夫人と共に出席したが、果たして出会う事が出来た。
そうして少しの隙間を得て、民雄に蔵戸荘の事を話すと、彼は自分の妻を蔵戸家へ奪われる程に思い、一旦は痛く失望したけれど、松子が何もその様な心配は無いと誓い、子爵の不幸な有様などを詳しく説いたた為め、漸(ようや)く納得して安心したけれど、それは毎週一度、必ず手紙を寄越すとの堅い約束を松子から得た後であった。
* * * * *
* * * * それは扨(さ)て置き、子爵は蔵戸荘に帰り着くや否や、待ち兼ねて居た葉井田夫人に向い、先ず順を追って、春川梅子の事から話始めた。その言葉は我が娘の事を話すほど優しくて、梅子の清い愛らしい姿から、心栄えの優しい事、少しも浮世の風に染まらず、唯だ天然の美を愛して、不平も無く欲も無く、子供の様に暮らして居る様子を細々と説いたので、夫人の心は、未だ見ぬ梅子に対し、母の心の様に和らぎ、
『ではもう梅子と、思い定めてお帰り成さったのでしょうね。』
と問うた。子爵は、
『イヤそうは行きません。』
と言って、更に松子の事を説き始めたが、それを聞くと松子こそ優しい中に、男も及ばないほどの、寛大な気風が有って、天然に大いなる王国か、そうでなくても、大いなる領地を支配する様に生まれて居るとの事である。
『それなら松子にお決め成るさったのですか。』
と葉井田夫人が再び問えば、
『イヤそうは行きません』
と同じ返事である。
夫人『では何方にするのです。』
子爵『何方が好いか、私には何うしても分かりません。それですから、此の選り分けは、第一に貴女、第二に瓜首へ一任します。』
夫人は重い責任を負わされた者哉と、顔に心配気な色を浮かべたけれど、その様な愛らしい二人の少女が、此の身に運命を任せるかと思えば、嬉しく懐かしい心地もする。
『何しろ両女がその様に優れて居るのは、未だ当家の運が尽きないのです。何うか少しの間違いも無い様に、選り定め度いものです。』
と云い、良(や)や久しく無言と為って考えた末、更に心配気に問うた。
『梅子と云うのは母親が無いのですね。』
子爵『そうです。それに父親の方も、殆ど無いのと同様です。』
夫人『松子の方は、その阿母さんが一緒に来るのですね。』
子爵『そうです。』
夫人の目には憐みの露が光った。
『それでは梅子が叶いは仕ません。母も無く世間も知らずに育った身で、唯一人ここへ来るとは、それに年も一つ下だと云うではありませんか。』
子爵も流石にしょんぼりとして、
『その代わり、梅子の方は、少し試験の点数を斟酌(しんしゃく)《事情を考慮して付ける》して遣れば好い。』
とは、苦しい言い様である。
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