巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

hanaayame26

         椿説 花あやめ  
   

作者 バアサ・エム・クレイ女史 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳

since 2022.7.30

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          二十六 両方を一様に

  この様な所へ子爵が来た。顔を見合わせて居た梅子松子は、直ぐに子爵の左右の手に縋(すが)った。真に両女とも子爵を父の様に思い、此の上もなく昵(なじ)んで居る。

 子爵は両女(ふたり)の仲の好い様を何よりも喜んだ。そうして後ほど朝餐の終わった後で、屋敷の中の室々(べやべや)から古い謂(いわ)れの有る場所などを隈無く見せて遣ると約束した。

 それで朝餐の済んだ時、子爵はテーブルを離れながら、草村、葉井田の両夫人に向かい。是れから梅子松子を連れて邸内を見廻るのだと告げた。それは、若しも草村夫人が一緒に行くのを望むかと思った為である。所が夫人は之を望まなかった。

 『私はとても若い娘達と共に、走り廻る事が出来ませんから、葉井田夫人とお話しを仕て待って居ましょう。』
と答えた。之はナニ、共に走り廻る事が出来ない訳では無い。必要と有れば鯱鉾立(しゃちほこだち)も仕兼ねないけれど、家に残って葉井田夫人の機嫌を取り度いのだ。

 何でも、昨夜瓜首を捕虜にした様に、此の夫人をも捕虜にして置かなければ為にならいと見抜いて居る。のみならず此の夫人と談話する中には、益々深く事の秘密が分かって来るだろうと信じて居る。仲々一挙手一投足にも卒が無い。

 達って子爵は勤めもせず、直ぐに梅子松子を連れてここを出で、先ず家の内の構造から見せ始めたが、二人の最も深く感じたのは、太郎次郎の用いて居た部屋部屋に、どちらも机から本から筆墨の類まで、此の兄弟が居た時の通りに置き並べて有る様である。

 勿論日々掃除はするけれど、その後で又元の通りに置き直すと見える。或る部屋のテーブルには次郎が脱ぎ捨てたと云う手袋が、まだそのまま乗って居る。或る部屋の壁には、太郎の立掛けた杖(ステッキ)が依然として、その位置を保って居る。

 是等の様子を見て、梅子の方は悲しさを催し、無言で涙を浮かべ、松子の方は之も悲しげでは有るけれど、二言三言、品物などに批評を加えた。情は深いのと智に富んだとの相違は確かにある。
 
 それから庭内の古跡などを見廻るに及んでも、二人の相違は多少現れた。勿論幾千年連綿と続いて来た旧家の事ゆえ、到る所古跡ならぬは無しとも云うべき程で、石にも草木にも皆それぞれの歴史がある。

 梅子の方は美の方に心が傾き、動(やや)もすれば、絵の事に言葉が及ぶ。松子の方は風雅と云う趣味も有って、何うかすると文学の事をまで引き合いに出す。併し二人とも少しも無理に勉めて居る様子は無く、唯だ感ずるままを口に出すのだ。

 子爵は常に二人の言葉を天秤に掛けて居る。子爵としては梅子が欲しい、跡取りとしては松子の方が好いかも知らんと、此の様にも思った。詰まる所、両方を一様に欲しいので、梅子を留め置いて松子を帰すのかと思えば、腹の中が残念さに煮蹛(にえかえ)る様な心地がし、梅子の方を帰すのかと思えば、直ぐに涙が湧いて出る。

 試験すればする丈、難しくなって、少しも事情が進歩しない。是れは何うしても葉井田夫人と瓜首に任せ、二人の決断に未練無く従う外は無いと、前から思い定めて居る事を、又重ねて思い定めた。

   *      *      *      *      *      *      *      *      *      *      
 日を経るに従って両女(二人)とも益々此の家に慣れ、宛(あたか)も自分の家の様に、思い思いに好いた部屋、好いた場所に行って遊びなどする程に成ったが、松子の方は多く林や河などの、壮大な景色を見廻り、梅子は花の有る所、そうでなければ美術室へ入る事が多い。

 多分、美術室にある絵に対して、父の事をでも思って居るのか、未だ此の家に飽いた様には見えないけれど、松子と違い。唯一人逗留に来て居る事ゆえ、自然自分の家を思い出すのかと、憐みの深い葉井田夫人が、少し可哀相に思い、或る時、その後から美術室へ行って見ると、太郎次郎の肖像の枠に、草花を挿してある。そうして梅子は次郎の肖像の前に座し、余念も無く眺めて居る。

 『オヤ梅子さん、此の花は貴女が挿しましたの。』
と夫人は問うた。梅子は極て真面目に、
 『ハイ、此のお顔が物をでも言いたそうに見えますから、私は生きて居る方の様な気がして、何だかお淋しかろうと思いまして。』

 夫人は優しい心根に深く感じ、
 『若し此の子が生きて居て、貴女のその親切な言葉を聞けば、直ぐにお嫁に貰って呉れと云いましょう。』
 梅子は少し顔を紅め、
 『親切と云うのでは無いでしょうーーー。』

 夫人『では何です。』
 梅子『子爵が此の方々を、あれほどお愛し成さって、今でも太郎とか次郎とか仰有(おっしゃ)れば直ぐに涙をお流し成さる程ですもの。私とても此の方々の事を思わはずには居られませんワ。私はこうするのが子爵へのお勤めだと思います。』

 夫人は可愛さに堪(こら)えられない様に抱きしめて、接吻を与えた。
 そうして幾時の後、子爵に逢って此の事を話した。子爵は嬉しそうに、
 『オオ梅子の心は、それほども美しいのか。』
と云って泣いた。若しこの時に投票したなら、無論梅子が当選したのだろう。



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