hanaayame29
椿説 花あやめ
作者 バアサ・エム・クレイ女史 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
since 2022.8. 2
下の文字サイズの大をクリックして大きい文字にしてお読みください
a:196 t:1 y:1
二十九 明らかに優劣が分かッた
大勢の眼でも、遂に梅子と松子との優劣を定めることが出来なかったので、もう是と云う思案も無くなッた。
そのうちに主人子爵の健康は、益々衰えるのみの様に見える。
或日瓜首は子爵と葉井田夫人との前で云った。
『子爵、あの二人の令嬢は、自分達が競争的な試験を受けて居るのだと、気附いて居られましょうか。』
子爵は思案にも及ばず、
『それは気附いて居る筈は無い。』
葉井田夫人も語を合わせ、
『梅子でも松子でも、此の家の相続人に成られるなどと云う疑いは露ほども持って居ません。若しその疑いを持って居る人が有るならば、それは草村夫人でしょう。是とても明白には知りますまいが当人同士は夢にもです。』
瓜首は余ほどの知恵でも持ち出し相な様子と為って、
『それだから優劣が分かりません。兎も角も当人同士に取り、容易ならない事柄ですから、もう打ち明けて、二人のうち何方でも一人を、当家の相続人にする積りだと言い聞かせるのが好いでしょう。そうすれば双方とも大切な場合だと思い、自然と心が改まりますから、今まで見えなかった優劣も、見える事に成りましょう。』
子爵『成るほど、尤(もっと)もな説では有るが、それでは全く競争の号令を発する様な者で、何だか可愛想にも思われる。』
瓜首『その様な区々の私情を云って居るべき場合では有りません。それに遂には知らさなければ成らない事柄ですから、今の中に知らせる方が却って当然です。』
子爵『フム、如何にも、それもそうだ。』
と云いながら葉井田夫人の顔を見た。此の夫人は人の意見が孰れとも決しない場合には、口も出すが、既に瓜首の意見がこう定まって居ると見た柄は口を出さない。なるべく人の意見を尊敬するのだ。
子爵は断案を下した。
『葉井田夫人に異存がが無ければ、瓜首さんの御意見に従い、明朝食事の後に松子母子及び梅子と是へ呼び、極めて明白に言い渡しましょう。』
是で愈々(いよいよ)、競争の号令が公けに降(くだ)る事に極まった。梅子松子は此の号令を何の様に聞くだろう。
所が此の夜、晩餐の後で、少し変わった事が有った。それは話の勢(はず)みから、梅子と松子との、心の違いを多少現す様な問題が起こったのだ。
事の始めは領地の噂から出たのだが、松子が聊(いささ)か言葉の力を籠めて子爵に向かい、
『私は今日で三度、木陰谷と云う所を通りましたが、その度に気持ちが悪くなりました。』
子爵は少し怪しんで、
『それは何う云う訳ですか。』
松子『あの谷は、小作人の住む長屋が並んで居るでしょう。』
子爵『そうです。』
松子『私は早く那の長屋を、お毀(こわ)し成さらなければいけないと思います。』
傍に聞いて居る草村夫人は、大変な事を云うと打ち驚き、
『アレ松子は何をお云いだ、その様な失礼な事を。』
全く松子の言う事が、子爵の怒りに触れるだろうと信じた。松子は少しも構わずに、
『アノ様な日当たりの悪い所ですのに、傍に沼が有って、湿気が絶えず、それにあの長屋は家が余ほど古くて、昔風に部屋も小さく、空気の流通など云う事は、少しも附いて居りません。』
梅子が何時に無く反対した。
『あれ、那所(あすこ)は大層景色の好い所では有りませんか。遠くから見ると、蔦(つた)や葛(くず)が壁から屋根まで這い上って居る小屋の様な長屋が沼に映り、絵にも無いほど美しく見える様に私は思いますが。』
松子『美しい事は美しいけれども、小作人の健康には代えられません。彼許(あすこ)に居る子供達の中にも、僂麻質斯(リュウマチス)を病んで居る者も有ります。あの様な健康に障る家を毀(こわ)さずに置き、人を住まわせるとは罪な事です。』
母夫人は顔色を失って、握って居る宝の山が、自分の手から抜け去る様に感じた。
『アレ此の児は又、小説でも読んで逆上(のぼせ)詰めたのだろうよ。常はその様な出過ぎた話をした事も無いのに。』
子爵は聊(いささ)か感じた様子で、
『ハテ、あの辺の子供の顔色にまで、変わりが有りましょうか。』
松子『御覧なされば分かります。あの長屋は何うしてもお毀(こわ)し成さらなければ。』
梅子は如何にも残念相に。
『でもあれを毀せば、此の領地の名所へ傷が附くでは有りませんか。子爵、お毀し成さってはいけませんよ。』
松子『幾等名所でも、百姓の健康には替えられません。領地を持つ人の第一の務めは、小作人の幸福と健康とです。』
子爵は何方とも裁判しかねて、
『サア何方の言葉に従いましょうか。』
と一同の顔を眺めた。
松子『私の云う通りに成さらなければ。』
梅子『何うか私の申す通りに成さって下さい。』
二人ともに中々熱心である。草村夫人は何で松子と梅子とが、アベコベの言葉を吐かないだらうと、悔しく思いながら、窃(ひそか)に子爵の顔を見ると、少しも立腹の様子は無く、却って機嫌が好く見えて居る。
ハテな、それとも松子の言う事が気に叶って居るのか知ら。松子の言葉には時々飛んでも無いと思う事が有るけれど、此の身よりは学問があるのだから、何うかすると、此の身が心配する言葉で、案外に他人から褒められる場合もある。今の言葉にも何処かに奥妙な心理とやらが籠って居るのかも知れないと思いつつ、最も巧みに跋(ばつ)《話のつじつま》を附け、
『領地を支配成さる事に付いては、松子の云う事も梅子さんの言う事も、子爵は二人の生まれる先からご存じですサ。サアサア議論は私が預かりましょう。』
と云い、梅子松子の双方を引き立てて、ここを去った。こう云ってこうすれば、何方へ何う転んでも間違いは無い。
その後で瓜首は子爵と葉井田夫人とを促し、子爵の部屋に入り、重々しい顔、重々しい言葉で、
『子爵、今の二人の言葉で、明らかに両女の優劣が分かりました。最早や少しもお迷い成さる事は有りません。』
と断言した。
知らず、何方へ何う分かったと云うのだろう。
a:196 t:1 y:1