hanaayame35
椿説 花あやめ
作者 バアサ・エム・クレイ女史 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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三十五 愈(いよい)よ々決する時が来た
『でも松子と梅子との間にそれ程の優劣が有るのですか。』
葉井田夫人が問い詰める様に云うのは、よくよくの想(おもい)である。
瓜首は少し呆れた様な、又少し叱る様な調子で、
『オヤ貴女は、未だ此の問題を決断出来ないと云うのですか。最初に私しが何と申して置きました。憎いの、可愛いのと云う、私情に絆(ほだ)される《束縛される》のが何よりも禁物だと、子爵及び貴女の賛成を得たでは有りませんか。私情は一事、お家の為は永久です。
若しも一時の可愛いとか、可愛相だとか云う私情の為に、此の選び方を誤って、他日万一の事が有れば、その責任は貴女に落ちます。貴女は一人で、済まない思いをしなければ成りません。貴女は他日誰に責められても、又当家の後々に不為な事が有っても、是は私しの私情で仕た事ですから、致し方が有りませんと云って、それで先祖代々へも、限り無き子孫の末々へも、言い訳が立つと思いますか。』
こう厳重に云われては、何と言い返す言葉も無い。夫人は黙然として又首を垂れた。是れが本当に落胆の体なんだ。瓜首は此の様を見て、少し自分の言葉が強過ぎたと、気の毒に思ったか、少しの間立兼ねて躊躇したが、併しそれは、ホンの少しの間で有った。自分で又、
『私情に絆(ほだ)される《束縛される》場合では無い。』
と、自分の心を叱る様に呟(つぶや)いてここを立った。無論子爵の部屋を指して行くのだ。
後に葉井田夫人は、深々と嘆息したが、自分が梅子を愛するのが、真に瓜首の云う様な私情だろうか。梅子の身に、人に愛せられる丈の美しい天性が備わって居ればこそ、自然に人が可愛いと云う情を起こすのでは有るまいか。
今までは此の可愛いのを私情とは思わなかったがと、愚痴な様に心の中で繰り返した末、何を思い出したか、突(つ)と立ち上がった。そうして廊下へ出て瓜首の後を追った。
子爵の部屋より少し手前の所で瓜首に追い附いて、
『瓜首さん、私も御一緒に行きましょう。』
勿論瓜首が拒むべき権利は無い。一緒に静かに子爵の部屋に入った。
子爵は枕許に小さいテーブルを引き寄せ、その上に紙墨筆などを置き、何か考えて居たのは矢張り相続の事に違い無い。二人がやがて座を占めるのを待ち、
『好い所へ来て下さった。お二人を迎えに上げようと思って居ましたと云い、更に少し考えて、
『何うも私は今の中に、遺言状を作って置かなければ成るまいと思います。』
遺言の事ばかりは、何の様な病人に向かっても、サア今の中にお作り成さいと、他人から云う訳には行かず、当人の方では死に際に成っても、まだ生き延びるだろうと云う様な欲が有って、ツイ書くべき時期を失う事が有り勝です。
私ばかりはその様な事が有っては成らないと、兼ねてから思って居ますので、誰からも懸念されないうちに、作り度いと思い、先刻から独り色々と考えて居るのですが、何にしても梅子と松子との取極めが肝腎です。
と云ってその取極めが今までも出来ない程ですから、此の上色々悩むより、三人で投票したいと思います。投票ならば三人の事だから、半々に分かれる気遣いも無し、一度に極まってしまいますから、即座に決着を得るのです。』
誰とて異存の有る筈は無い。葉井田夫人は唯だ首を垂れたままである。瓜首は極めて真面目に、
『何より適当なお考えです。したが投票は記名ですか無記名ですか。』
子爵は少し笑み、
『瓜首さん、此の様な時に法律口調は廃(よ)して下さい。此の三人の間で記名も無記名も有りません。梅子なら梅子、松子なら松子とその名だけを書けば好いのです。』
瓜首『帰する所、無記名投票です。それは何うしても無記名投票の方が、投票の理論に適して居ます。』
子爵『投票用紙も、裁(きっ)て拵(こしら)えて置きました。』
愈々(いよいよ)梅子松子の運命の決する時が来た。全く三人の投票だから、否応無しに一時に決するのだ。子爵も落ち着いて居る。瓜首も落ち着いて居る。独り葉井田夫人のみは、自分の動悸が自分の耳に聞こえる程、胸の波が高く打った。
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