巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

hanaayame40

         椿説 花あやめ  
   

作者 バアサ・エム・クレイ女史 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳

since 2022.8. 12

下の文字サイズの大をクリックして大きい文字にしてお読みください

文字サイズ:

a:88 t:1 y:0

            四十 為か不為か 

 松子の此の決心は、松子の好運を羨(うらや)まない梅子の心の清さに劣るだろうか。否、決して劣りはしない。梅子ならば知らない事。外の人には迚(とて)も出来ることでは無い。若しも松子を梅子の地位に立たせたなら、梅子の為(す)る通りに為るに違い無い。

 梅子を松子の地に立たせれば又、松子の為る通りに為るだろう。全く梅、松双美と云う者で、選ぶのに骨の折れたのも無理は無い。

 此の決心に従って、松子は翌朝、子爵の書斎の戸を叩いた。書斎の入口には額が掲(か)かって居て、当蔵戸家代々が一家の題目と心に念ずる金言を書付てある。

 ”I hold what I held”
と云うものだ。
 『我は我が有すを有す。』
と云う事で、真に貴族の高い尊(たっと)い心掛けに叶って居る。

 自分の持って居る物は、何所までも持ち伝えると云うのだから、先祖に残された家名へ、少しも傷を附けては成らない。領地を少しでも減らしては成らない。儀式も格式も、伝わるままに守って、流石旧家の面目を少しも落とさない様にしなければ成らない。

 此の様な心から貴族は、総て保守主義に傾くので、此の一語が保守の大精神を煎じ詰めた者である。松子は此の額を見て、異様に心が動いた。若し此の言葉に従って、蔵戸家の名誉面目を自分の此の手で持ちこたえ、彌(いや)輝かせて、後の世に伝える事が出来たなら何で有ろう。

 既に自分の物と極まった以上は、確かに『我が有』である。我が物である。此の『我が有』を何所までも『我が有』としなければ成らない。我が物としなければ成らない。此の額が確かにそう教えて居るのだ。

 その様な事は有るまいと思うけれど、若しも民雄の一条を打ち明けたが為に、我が有とすることの出来ない場合にも成れば何う
仕よう。額の言葉に背くのだ。イヤイヤ、蔵戸家を相続する許りが我が有と云うのでは無い。

 弓澤民雄も我が有なんだ。我が物なんだ。之を我が有とするのが、本当に此の題目の意に叶う者かも知れないと、何方(どちら)を考えても道理は有る。少しここに至って、躊躇の気味を生じたけれど、徒(いたずら)に惑い煩(わずら)う様な気質では無い。

 戸を開いて中に入った。子爵の前に恭々(うやうや)しく身をおろした。
 子爵も今はもう、松子を本当の我が娘と思わなければ成らないのだから、充分その気に成って、深い懐かしみを催して居る。

 全く松子の顔を見て嬉しそうである。そうして何を言い出す積りで来たのだろうと怪しみ、成るべく言い出し易い様に、笑みを浮かべて待って居ると、松子は言いたそうで容易に云わない。何所から言い出して好いか分からないのだ。けれど終に言出した。

 『私しは是ほど言いにくい事とは思わずに参りましたけれど。』
と丈で又途絶えた。子爵は何か母夫人の為め、無心《借金の申し込み》にでも来たのだろうかと思った。成るべく励ます様に、全く隔ての無い父子(おやこ)の口調と為って、

 『何も阿父(おとっ)さんに向かい、言い憎い事は有りませんよ。』
 松子『ハイ、そうは思って居ますけれどーーーー篤(とく)と《よくよく》お察しを願って置かなければ成りません。私しはアノ、自分の身体が全く自由では無い事を、申し上げて置き度いのです。』

 自由で無いとは何の意味だろう。通例何か約束に縛られて居る事を自由で無いと云うのだが、扨(さ)ては母夫人に言附かって来たのでは無いのかも知れない。

 子爵『それは阿母(おっか)さんも御存じの事でしょう。』
 松子の顔はパッと赤らんだ。
 『ハイ、イイエ、私しには、所天(おっと)と定まって居る人が有りますゆえ。』

 子爵『エ、エ』
 松子『それを貴方に申し上げなければ成らないと思いまして。』
真に子爵には寝耳に水と云う者だ。所天が有る。所天と定まった人が有る。
 『エ、許嫁けが定まって居ると云うのですか。』

 言い出したからは早(も)う度胸が据わった。
 『ハイ、そうです。けれどその事は阿母さんより外は誰にも話した事は有りません。』
 子爵は、何と云って、後の言葉を聞いたら好いか、未だ思案が定まらない。唯だ有合わせの言葉を以て、

 『梅子にも話しはしていないのですか。』
 松子『ハイ、梅子さんとは何も彼も打ち明け合う程に仕て居ますけれど、話していません。貴方には何うしても、お話ししておかなければ成らないと思いますから。』

 子爵は非常に真面目に、
 『そうですとも。』
 松子『その人は弓澤民雄と云いまして、今は倫敦(ロンドン)で弁護士と為って居ますが。』

 是だけ云えば、多分民雄の此の頃の名誉が、子爵の耳に入って居るのではないかと思ったけれど、無益である。子爵の耳には、決して松子の耳に響く様に民雄の名が響かない。仕方が無い、すべて云ってしまう一方だ。

 感心に松子は良く述べた。初めて民雄に逢った時から、母が立腹した事も、その後、今まで唯だ手紙だけ遣り取りして、双方の心が少しも変わらずに居る事も、有りのままに述べてしまって、

 『私しは民雄の外には、決して夫を持ちません。又何の様な事柄の為にも、民雄との約束を取消す事は出来ません。』
 子爵の顔は淵の深きが如しである。唯だ粛然と静であって、賛成だか不賛成だか心の底を現さない。

 何うやら賛成らしいと松子は思った。イヤそうで無いのかも知れない。子爵は同じ静かさの度合いで、
 『成るほど、初めて貴女に倫敦で逢った時、貴女の顔には、何だか深い所が有る様に思いましたが、矢張り此の事の為で有ったのですね。』

 アア愈々(いよいよ)賛成らしいと、少し松子は力を得た。
 『ハイそうであったかも知れません。ですが民雄は此の世に二人とは無い人ですもの。』
 子爵は初めて、何うやら真意を洩らす様な語調で、
 『けれどその許嫁が、貴女の為になるか、為に成らないかは分かりません。』

 松子の思ったより冷ややかである。
 賛成らしく思って輝いて居た美しい顔は曇った。



次(四十一)花あやめ へ

a:88 t:1 y:0

powered by Quick Homepage Maker 5.1
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional

巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花