hanaayame43
椿説 花あやめ
作者 バアサ・エム・クレイ女史 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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四十三 只だ驚きに驚いて
隠居料にでも有り附く事かと、自分から取り越して、子爵の部屋に入った草村夫人に、子爵の第一の言葉は、
『貴女は弓澤民雄と云う人の、人柄を御存じでしょうねえ。』
との問いであった。
夫人は直ぐに悟った。悟らざるを得ん。確かに松子が此の母を出し抜いて、民雄の事を子爵に打ち明けてしまったのだ。
『アレ、松子が民雄の事を、貴方のお耳に入れるとは、余りに酷(ひど)いです。母に対して不孝です。何うかその事は、お聞き成さらなかったお積りで、お忘れ下さい。お揉み消し成さってください。』
是では返事に為って居ない。けれど夫人は返事に為るか為らないかを考える暇は無い。余りに困った問題だから、只驚きに驚いて、只戸惑ったのだ。爾(そう)で有ろうよ、隠居料に有り附くのと娘がやっと得た大財産の相続権を棒に振るのとは、余り違い方が激しいから。
子爵は少し笑った。
『イヤ揉み消すにも揉み消されませんよ。松子さんが堅い許嫁の約束が有って、取り消す事が出来ないと云うのですから。』
夫人は血相を変えた。
『エ、松子がその様な事を云いましたか。許嫁などと。親の許さない約束が、何で許嫁でしょう。その様な約束を松子が覚えて居る筈は有りません。』
子爵『覚えて居ますにも、死んだとて背かないと云って居ます。けれどナニ、それは第二として、民雄とやらの人物は何の様です。』
夫人の返事は明白だ。
『私は大嫌いです。』
子爵は又笑んだ。
『貴女が大嫌いと丈では分かりませんが、何の様な人ですか。』
夫人『何の様にも、此の様にも、お話には成りません。私の娘を盗みに掛かる程ですもの。先ず泥棒です。』
唯だ民雄を罵(ののし)りさえすれば好いのかと、心得て居る。それのみで無い。真実憎さに我慢が出来ないのだ。若し娘の相続権にまで、故障が出て来はしないかと思うと、彼の肉を食らっても足りない気がする。
『併(しか)し悪人では無いのでしょう。先ず詳しくお聞かせ下さい。弁護士だとか云いますが。』
夫人『ヘン弁護士、看板を掛けた丈で、一人の依頼人も無いのを弁護士と云われるなら、それならば弁護士でしょう。
彼は一度も弁護をした事の無い中から、弁護士だと云っています。その癖、横柄な事と云ったら、宛(まる)で貴族か何ぞの様です。
私の許へ松子を貰いに来た時なども、何だか己が貰ってやるぞと、恩に着せる様な調子で、私が矯(たしな)めて遣ったら立腹しました。
何うでしょう。人の娘の心を奪い、爾(そう)して咎められたと云って怒る奴が有りましょうか。本当に失敬な男ですよ。』
殆ど三文の値打ちも無い様に聞こえるけれど、何だか子爵は見込みの有る青年の様に感じた。貴族の様に横柄だなどと云う所が気に入った。日頃この子爵の意見では、
『男と云う者は、爾(そ)う人に低頭平身する者では無い。人の機嫌を取る様な奴は、何所か自分の心に弱い所が有るので、詰まり人から恵みを受け度いと云う、活地(いくぢ)の無い気が腹の底に潜んで居るのだ。
何でも人は自分の腕で、自分に仕出すと云う独立心が無くてはいけないと、御自分の腕で、数代前から傾きかけて居る一家の財政を、取り直した丈け、イヤ取り直して更に其の上に盛り立てた丈、酷(ひど)く人に頼らないと云う気象に重きを置いて居る。
『成るほど、分かりました。其の気象の張って居る所を松子さんが愛するのでしょう。』
『エ、愛する、松子が愛する。エ、子爵、松子は今でもあの様な者を愛して居ると申しましたか。』
何でも彼(かん)でも、松子が民雄を愛して居る様に、子爵から思われては大変だと、夫人は堅く信じて居る。
子爵『ハイ、愛して居ますにもーーーー。』
夫人『イイエ爾(そ)うでは無いでしょう。唯だ正直一途の心で、愛はもう失せたけれど、一旦の約束だから、守らなければ成らないと思って居るのでしょう。
ハイ正直な事だけは感心ですよ。私が厳重に育てた者ですから、正直と云う事は、全く良く私に似て居ます。』
こうも云えば娘の値打ちが上がるかと思って居る。此の『私し』に似られてたまるものか。
子爵『愛して居ますにも、私から民雄と此の財産と両方を取る事は出きないから、何方かを選べと云いましたら、松子さんは、それならば財産を捨てて、愛を選ぶと云う様にお返事でした。』
財産を捨てて愛、蔵戸家を捨てて民雄、栄爵を捨てて平民、栄華を捨てて貧乏、貴族を捨てて弁護士、幾等繰り返して驚いても、同じ事だ。夫人は全く悲鳴の声を発した。
真に何れほどか辛く、且つ当惑を感じただろう。子爵は柔らかな調子で、
『それに松子さんが言いますには、民雄は貴族に反対して、平民主義を主張する、急進党の意見では有るし、自分の苗字を捨てて、蔵戸家の姓を名乗るなどと云う条件には、従わないだろうと云う事でした。』
夫人は俄破(がば)とテーブルに蹙(しが)み附いた。爾(そ)うして泣いた。
『エ、悔しい、悔しい、私は何して自分の娘に、この様に窘(くるし)められるのでしょう。何も折角向いて来た此の幸福と此の名誉とを、捨てなければ成らない様な、悪い事をした覚えは有りません。何(どう)して、何うして、此の様な辛い目にーーー。』
後は咽(むせ)びに聞きも分けられ無くなった。是れは全くの真情である。余りの事に泣く外は無い事に成ったのだ。
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