巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

hanaayame45

         椿説 花あやめ  
   

作者 バアサ・エム・クレイ女史 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳

since 2022.8. 18

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           四十五 是も仕合わせであった

 弓澤民雄へ招待の手紙を出すと共に、子爵は瓜首に命じ、倫敦(ロンドン)の同業者へ、民雄の事を聞き合わさせた。
 孰(いず)れの返事も、立派である民雄を褒めないのは一個(ひとり)も無い。

 取り分け、民雄が此の頃法廷で、一方ならない手際を現し、早や既に若手弁護士中の第一に推(お)され、上流社会からも非常に尊敬を受け初めて居る事さえ分かった。

 決して草村夫人の云った様な、
 『一度も弁護をした事の無い弁護士』
では無い。
 子爵は何だか懐かしい様にも思った。

 凡そ此の子爵が世に第一の宝とするのは、蔵戸家と云う我が家名で、第二は人物である。御自分が自分の力のみを以て、此の蔵戸家を盛り返した丈に、如何(どれ)ほど家名の盛衰が、自分に依るかを知って居る。

 人物を得なければ、盛んな家も衰え、人物を得れば家も盛んになるのだ。家名も大事に思うだけ益々人物を大事に思う。
 殆ど子爵は気遣った。
 『何(ど)うか民雄と折り合う事が出来れば好いが。』
と、爾(そ)うして又思った。

 『松子の値打ちは、相続人と定まって以来一段上がった。通例ならば、前よりも疵(きず)が出る者であるのに、疵が出ずに値打ちが出るのは、全く心底から疵が無いのだ。若しも此処で折り合う事が出来れば、唯だ一挙で娘を得た上に、婿迄も得るのだから、全く梅子に極めずに、此の松子に極めた方が幸いで有った。』
と。

 実の所、子爵は今でも梅子に未練が残り、何だか惜しい様に思い、取り分け梅子が、少しも松子に対して嫉妬の心などを起さないのを見ると、可愛さが増すのみで有ったが、今はそう分別が定まった。

 若し梅子にしたならば、梅子が何の様な夫を持つ事に成るかもも知れず、その時に、二度の心配をする所だったが、松子にはそれが無い。既に夫は民雄と定まって居る丈に、又、民雄が人物と定まって居る丈に、唯だ此の身と折り合いさいすれば、それで好いのだ。

 投票が仕合わせで有った。何うか折り合う様にしたい。
 若し折り合う事が出来ないなら、その時は梅子にする。矢張り候補者が二人有ったのが、是も仕合わせで有った。
 *      *      *      *      *      
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 招待状が着いた時、民雄はそれほど驚かなかった。既に松子から幾等か手紙を得て、凡そを察して居た。けれど行こうか断ろうかと思案はした。唯だ松子からも一緒に手紙が来て、是非来る様にと有ったので、何方(どちら)かと云えば、松子の顔を見るのが重大な事件の様に思われて、行く気に成った。

 勿論誰が見ても男の中の男だから、子爵家に着くや否や、何の方面からも好意を得た。唯だ草村夫人だけが怖い目をした丈で有った。子爵との真面目な話は、毎日二時間ほど三日に渡った。之は子爵が一日二時間より上、頭を使う事は医師から許されない為である。

 見る度に子爵も民雄を尊敬する念が増した。子爵は民雄を平民社会の貴族だと思うと、民雄は子爵を貴族の中の平民だと思った。全く子爵は貴族ながらも平民以上である。その一家を盛返した艱難と勇気とは、無一物から立身した平民の英雄にも劣らない。

 けれど話は肝腎な所で合わなかった。容易には合わなかった。民雄は云った。  
 『私は若し軍人に成れば、大将にまで登らなければ、承知しません。政治界に入れば、総理大臣に成らなければ止めません。』
と。

 此の気性が益々子爵の気に入った。又云った。
 『私は此の弓澤と云う姓が、実に惜しくて成りません。』
と。是では幾等尊敬して合っても、、纏(まと)まりは附かない。けれど非常に民雄を弱らせた事が一つ有る。

 それは自分の妻である者の身に降って来た幸福をば、夫たるべき者が、我が意地の為に、捨てさせて済むだろうかとの懸念であった。
 此の懸念だけならば併(しか)し、未だ民雄を圧(おさ)え附けるには足りなかったが、兎も角もと松子へ相談して見ると、松子は決してその様な気兼ねをして下さるなと云い、又民雄の自分の苗字を惜しむのを酷(ひど)く賛成した上に云った。

 『私は男が羨ましいと思います。女では何うしても自分の苗字を大事にする事が出来ませんから。』
 民雄はその意を理解し兼ねて、
 『何故(なぜ)です。』

 松子『何故と云って、何れほど大事と思う苗字でも、捨てて夫の苗字を名乗らなければ成らないでは有りませんか。』
 之は別に深い意味が有って云った訳では無いが、民雄の心には深く徹(こた)えた。

 成るほど爾(そう)だ。私は自分の姓を捨てて松子の姓を名乗るのを拒むけれど、松子には自分の姓を捨てさせて、私の姓を名乗らせるのだ。是が公平な了見《考え》だろうか。

 彼は或る意味に於いて、男女が同権であるべき事を信じて居る。又彼は『公平』と云う事を、一つの義務と信じて居る。人の苗字に従う事は何うあっても承知せず、人を我が苗字に従わせる事には、幾百万の財産を捨てさせても、構わないだろうか。

 是が公平と云ふ者だろうか。
 何うも『否』と云う外は無い。
 翌日子爵に逢った時、子爵は云った。

 『弓澤さん、貴方は妻が大財産を持って居るのを、何だか夫たる者の恥の様にお思いの様子ですが、此の財産をそれ程多いと思いますか。私は貴方なら、ナニ妻の二倍や三倍する財産は、今に作ると云う考えを起こします。』

 民雄は全く爾(そ)う思った。成るほど妻の財産を酷く大きい様に感ずるのは、余りに活智(いくじ)が無い。妻の財産を自分への刺激と感じ、一層の奮発を起こすのが真の男児だと。

 幸い英国には、二個(ふたり)の姓を合わせて、一個にする習慣がある。例えば父方の姓と母方の姓とを繋ぎ合わせるのだ。その例に従って『弓澤蔵戸』と名乗れば好いと。

 到頭双方の中間で子爵と民雄は折り合う事に成った。純粋の蔵戸の姓は妻が名乗り、子爵の爵位も妻が嗣(つぐ)のだ。自分は子爵への尊敬の為、妻への公平の為、又自己の奮発の為、我が意地を犠牲にするのだ。

 「人間は人の為に、犠牲に為る」
と云う事を喜ばなければ、真成の人間では無いとの意見が、日頃から民雄の胸中に横たわって居た。

 併し此の折り合いは、何よりも彼(か)よりも、子爵その人の人物品性が高かった為である。全く民雄は子爵を尊敬すべき人と感じ、
 『その人の嘆きと心配とを、何うかして弛めて遣らなければ成らない』
と云う気が起きた。

 兎も角も、先ずは目出度い。
是で草村夫人も、もう
 『一度も弁護をしない弁護士』
を恨むに及ばない事とは為った。



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