巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

hanaayame46

         椿説 花あやめ  
   

作者 バアサ・エム・クレイ女史 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳

since 2022.8. 19

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           四十六 産むが易い

 案ずるより産むが易い。先ず子爵と民雄との間に話が附いた。草村夫人も民雄を憎まない事に成った。民雄の評判は仲々好い。
 梅子までも民雄が蔵戸子爵夫人の夫として、適当な人物であることは認めて居るらしい。或る時松子が問うた。

 『梅子さん、貴女は民雄さんを何の様にお思いです。』
 梅子は笑った。
 『私しにまで褒めさせ度いとお思いですか。』
 松子『イエ、爾(そう)では有りません。悪い所が有れば、悪い所が有ると云って頂き度いのです。』

とは云うけれど、矢張り褒めて貰い度いには違い無い。梅子は余ほど真面目に考えて、
 『爾(そう)ですねえ、私の父が男子とか云って賞美する容貌とは違いますけれど、ここへ来るお客の中では、一番立派な方だと思います。本当に貴女はお仕合わせですよ。』

 松子『爾(そう)です。私も仕合わせだとは思います。けれど貴女のお父上の云う男子美とは、何の様なのです。』
 梅子は、
 『丁度アノ』
と云い掛けて口を噤(つぐ)んだ。松子は攻める様に、

 『オヤ丁度アノでは分からないでは有りませんか。丁度アノ何方ですか。』
 梅子の顔は少し当惑気に紅(あから)んだ。
 松子『仰有(おっしゃ)らないのは、何だか可笑しいですよ。丁度アノ何方ですか。』

 梅子『でも云えば笑いますもの。先日も葉井田夫人に笑われました。』
 松子『云わなければ、もっと笑いますよ。』
と云って笑うと、梅子も又笑いながら、
 『それでは』
と云って、松子の耳に口を寄せ、何やら細語(ささや)いた。

 松子は又一層笑って、
 『オヤ貴女は肖像画に成って居る次郎さんに。』
 梅子『イイエ、父の男子美と云うのが,丁度あの方の様な絵なんですよ。』

 何と云う親しい様子だろう。先ほどから部屋の一方で、此の様子を見るとも無く見て居たのは草村夫人である。夫人は梅子と松子との親密なのが気に入らない。真逆(まさか)に嫉妬と云うでも有るまいけれど、もう確かに思い込んで居る。

 梅子と松子とは全く身分が違う事に成ったのだから、爾(そ)う友達の様に親しくさせてはいけないと。
 若し梅子が侍婢(こしもと)か何ぞの様に、遜(へりくだ)って松子に仕えたなら、それなら草村夫人は喜ぶかも知れない。

 イヤ実はそれでも喜びはしない。此の夫人が唯だ梅子を嫌うのは、どうも梅子の清い愛らしい様である。何だか誰の顔を見ても、梅子に同情を寄せている様に見え、取り分け葉井田夫人などは、梅子を我が娘の様に傷(いた)わり、その上に子爵自らさえ、充分梅子を可愛相に思って居る様子が見える。

 此のままで若し梅子を此の家に置けば、何う云う表裏で子爵の心が飜(ひるが)えり、又も梅子を養女などと言い出さないとも限らない。丁度梅子を此の家に置くのは、娘の為に大敵を養って置く様な者であると、此の様に思い詰めて居る。

 今も梅子が松子に細語(ささや)いた様子を見て、ツと立ってここへ来た。爾(そう)して二人の仲へ、割る様に座を占めた。是で話は止んでしまった。此の翌日又夫人の気に障(さわ)った事がある。

 それは単に松子と民雄とが、梅子の噂をして居たに過ぎない。けれど夫人に取っては大事件である。不思議に又、誰と誰との話でも此の夫人の耳には必ず入る。本当に閻魔(えんま)の耳の様な耳だ。話の起こりは分からないが、何でも松子の問いに答えた為らしい。

 民雄は熱心に梅子を褒めて、
 『何うして倫敦(ロンドン)などに、あの様な清い令嬢が有りますものか。子爵も話の後では屹(きっ)と梅子さんの事を褒めますよ。』
 夫人の耳には是だけで沢山である。もう何しても梅子を此の家から追い払わなければ成らないと決した。

 直ぐに葉井田夫人の部屋へ行った。もう全く蔵戸子爵令嬢の母と云う権幕が備わって居る。けれど爾(そ)う押付けがましくは真逆(まさか)に葉井田夫人へ言えないから、旨(うま)く言葉を廻し、

 『私は梅子さんの父上が、もう嘸(さ)ぞかし淋しかろうと思いますよ。それを我々が思い遣らないのは、余り気が附かない様に見えはしないでしょうか。』
 何たる婉曲な言葉だろう。併(しか)し婉曲の中に早や、『吾々』と云う言葉を加え、自分をも葉井田夫人と同等に此の家の主人株へ加えて有る。

 葉井田夫人は、誰の何の様な言葉を聞いても、決して悪い方へは取らずに、良い方へ合点してしまう気質だ。
 『ハイ、私も爾(そ)う思い、先頃も招待状を出しましたけれど、来ようと云わないのです。もう一度手紙を出して見ましょう。二度もお招き申せば、幾等梅子の云う様に絵の事にのみ夢中でも、お出でなさるかも知れません。』

 お出で成されては耐(たま)る者か、夫人は少し遽(あわ)てて、
 『爾(そう)でしたねえ。絵の事にのみ夢中で、人が招待状など送ると腹を立て、その方を恨む程だと、爾(そ)う爾う梅子さんが先日も云って居ました。矢張り招待状などは出さずに、御自分が愈々(いよいよ)寂しく為って、出て来る気になる迄、此のまま置く外は有りませんねえ。』
と招待状の予防線だけを張って切り上げた。

 併し是だけ云って置けば、又の折りの有った時、梅子を返す論を主張する下地には成る。
 けれど、仲々折りの有るのを、待って居る夫人では無い。それに爾(そ)う気永くは待たれないと信じて居る。

 直ぐにその足で梅子の部屋へ行き、ツイ通り掛かった風で中を覗くと、梅子は独りで景色の画(え)を描いて居る。夫人は何気無く入って、
 『私は昨夜、貴女の阿父(おとう)さんに、大層怨(うら)みを云われた夢を見ましたよ。』

 一度も逢った事の無い人を、何で夢になど見る者か。けれど梅子は爾(そう)は思わない。
 『アレ、私は毎晩の様に父の夢を見るのですよ。』
 夫人『それにしては、貴女は余り不孝過ぎるでは有りませんか。何故早く娘を返して呉れないと云って、それはそれは昨夜のお怨みは大変でした。』

 梅子は悲しそうな顔など見せた事の無い顔を曇らせ、
 『手紙は月曜日と木曜日に屹(き)っと出して居ますけれど、開封も成さらないだろうと思います。』
 夫人『それなら一度帰って、安心させてお上げ成さるのが、娘の道ですよ。』

 梅子『でも子爵が、「私の方から帰れと云うまで逗留せよ。」と初めからのお言附けですもの、父もその積りで。』
 夫人は呆れる様に打ち笑い、

 『アレ梅子さんは本当に正直だよ。子爵の御用はもう済んだでは有りませんか。』
 成るほど済んだ。松子さんが相続人と定まった以上は、もう御用は無いのかも知れない。今まで何故その様な所に気が附かなかったのだろうと、梅子は自分で怪しんだ。

 その色を夫人は見て取り、
『真逆(まさか)に子爵の方から、サア用が済んだからもう帰れとは、云われないでは有りませんか。此の子の様な正直な子を客に招いたら主人は事です。』

と云って宛(あたか)も親しそうに、又冗談の様に旨(うま)く打ち笑うは、流石に多年練磨した口先である。梅子は初めて気が附いて極まりの悪い様に、
 『では葉井田夫人に問うて見ましょうか。』
と云って、早や立ち掛けた。
 
 夫人『アレ、葉井田夫人に帰ろうかなどと聞けば、引き留めて下さいと、持ち掛ける様に聞こえるでは有りませんか。貴女の一存で取り極めて、イイエ、それは向うは挨拶ですから、何時までも逗留せよと、引き留めるに極まっていますから、何と引き留められても、言い出した上はもう留まらない事にしなければ、貴女が笑われますよ。』

 梅子は涙を浮かべた。
 『ではそう致しましょう。私は阿母(おっか)さんが無い者ですから、世間へ出ると人に笑われる様な事ばかりして居ます。』
 夫人『だから私が可哀相に思い、気を附けて上げるのです。』
とは何(ど)の口から出る言葉だろう。

 爾(そう)して更に釘を打つ様に、
 『実を云うと、貴女が余り此の様な所へ気が附かないから、私は見るに見兼ねて居たのですよ。』
と撚(よ)りの戻らない様に言い足した。



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