hanaayame48
椿説 花あやめ
作者 バアサ・エム・クレイ女史 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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四十八 非道と云う者だ
若しや、若しや、若しや助かったと云う船客の中に、当家の子息が居はしないだろうか。草村夫人は不安で仕方が無い様に、身体を戦々(ぶるぶる)と震わせて、二度も三度も新聞を読み直した。
真逆(まさか)に神が爾(そう)までは、無慈悲で無いだろう。此の家の息子を助けるなどとは、余りに邪慳《意地悪》過ぎる。胴慾《欲が深く思い遣りが無い事》と云う者だ。非道と云う者だ。それでは神で無い。悪魔だ。
何たる得手勝手な考えだろう。夫人の心中には、唯だ自分と云う一念より外は何も無い。何でも自分の身に都合の悪い事ならば総て非道だ。総て悪魔だ。
此の家の息子が助かって居たならば、子爵が何の様に喜ぶだろうなど云う思い遣りは、毛ほども浮かばない。唯だ自分の身が大事だ。何うやら斯(こ)うやら、蔵戸子爵令嬢の母君と云う地位まで漕ぎ附けた今と為って、此の家の天然の相続人に現れ出られては、堪(たま)る者か。
唯だ一途に思い詰めて、松子の事さえも考えない。可愛いのは自分の身ばかりである。何度恨めしそうに嘆息したか知れない。何度拳(こぶし)を握ったか知れないが、終に思い直した。
イヤ此の家の息子である筈が無い。此の家の息子は、二人確(しっか)りと抱き合って、海に沈んだ様子を、確かに見た人が有って、立派な死に様だと新聞も褒め、流石に貴族の息子だと、その頃の人の噂にも成った。
それに若し当家の息子なら、船長も今までに必ず何処かから、電報をを寄越すとか何とかする。その様な事が無いのは当家の息子で無い証拠である。アア詰まらない事に気を揉(もん)だと、やっと悟りが開けると共に、ホットと息して四辺(あたり)を見廻した。
爾(そ)うだ、確かに当家の息子では無い。併し此の新聞を此の家の人々が見る時には、種々様々に想像もし噂もするだろうと、又斯(こ)う思うと、是れが腹立たしくて耐(たま)らない。
現在自分の娘が、もう当家の相続人と極まって居るのに、その前で若しや当家の息子が、生きて居るのでは無いだろうか、と云う様な相談をせられて、それを黙って聞いて居る事が出来ようか。
松子と云い民雄と云い、少しもその様な事に頓着しない気質で、相続権などは何時失っても構わないと云う様な心で居るから、若し人が噂すれば、好い気に成って、自分達までその仲間に入り、彼(あ)あだ、斯(こ)うだと推量を持ち出すに違いない。
アア癪に障(さわ)る。忌々しい。私がこれほど迄に心配する大事な事件が、人の面白半分な噂の種などにせられるとは。
それのみかその噂から、又何の様な事で何う変が起こるかも知れない。
追い払らおうとした梅子まで、まだ何時此の家を立ち去るとも極まって居ない。
若し地盤が動き出す様な事が有っては大変だから、ここは此の事を誰にも知らさない様に、伏せてしまうのが好い。爾(そ)うしよう。
直ぐに夫人は、新聞を成る丈細かに畳隠し持って、自分の部屋へ行き、暖炉へ入れて焼いてしまった。日頃は可成りに知恵の利く夫人であったのに、余り欲と野心が昂(こう)じて、眼も脳髄も眩んでしまったと見える。
新聞を焼き捨てたからと云って、人の口に戸は立てられる者では無い。戸を立てたとしても、又事実その者を揉み消す訳には行かない。
夫人がこの様に新聞を焼き捨てた刻限である。先頃から新聞を毎朝の楽しみとして居る子爵は、広間へ来て、テーブルの上を見たが、二三の雑誌が有る許りで、肝腎の新聞紙が無い。
今朝に限って何う云う訳だろうと、直ぐに家扶を呼んで聞きただしたが、家扶は確かに此の雑誌と共に給仕に渡したと云い、給仕を呼んで調べると、確かに子爵が直ぐにお読み成さることが出来る様に、小刀で小口まで断ち切って、テーブルの上に載せて置いたと云う事だ。
それなら誰か持って行ったのかと、殆ど家中の人をここへ集め、綿密に調査しても、持って行った人は無い。子爵は非常に不興の顔色を現した。
未だ来ないと云うなら我慢も出来るが、既に来た者が無くなったと有っては、我慢の仕ようが無い。
大きく云えば、一家の取り締まりにも関するのだ。それに又、人が持って行く位なら、何か大切な事柄が出て居ただろうとの推量も自然と起こる。何が出て居たのだろう。何の様な事件が都で始まったのだろう。それとも特別に何か、此の家の者が見度いと思う様な件でも、有ったのでは無かろうか。
怪しんでも無益だから、不承不承に諦めたけれど、誰一人子爵を気の毒に思わない者は無く、中にも最も親切に子爵を慰めたのは、梅子で無く松子で無く、葉井田夫人でも無く、草村夫人であった。
良(やや)あって、草村夫人の許へ、松子の衣服の為に、仕立て屋が来たと云う知らせが有った。松子は今朝それを待って居たので、直ぐに一同の前を退き、母の部屋へ行って用事を済ませた。
その後でフト気が附くと、部屋の中に紙を焼いた匂いが有る。何か大事な書類でも焦げて居るのでは無かろうかと、暖炉(ストーブ)の中を覗くと、確かに新聞紙を焼いたで有ろうと思われる様な跡が残って居る。
ハテな、何だか不安な思いに胸を躍らせる所へ、母御が来た。
『阿母(おかあ)さん、阿母さん』
と松子は少し厳しい声で呼び、
『貴女は先ア、何で新聞紙をお焼きに成りました。』
と詰(なじ)る様に問うた。
母御はとぼけた。
『え、新聞紙を、何も私の所へ新聞などは来ませんよ。』
などと傍方(そっぽう)《知らん顔》に返事するが、何だか可笑しい。
松子『子爵があれほどお尋ね成さる新聞紙を、貴女が持って来てお焼き捨て成さったのです。』
夫人『エ、私が』
松子『ハイ、暖炉の中に紙を焼いた跡が残って居ます。』
夫人『アア爾(そ)う爾う、先刻、古い手紙などを、文庫の中を掃除して、沢山其処(そこ)へ入れました。』
松子は情け無いと云う風で、
『何で阿母さん、貴女は私へまで、その様な事を仰有ります。』
夫人『古い手紙を焼いたのが悪いのかえ。』
流石に松子は腹立たしく感じたのか、無言(だま)って自分の部屋へ去ってしまった。
後で夫人は慌てて暖炉の所へ行き、曾て此の家へ来て以来、重い物を持った事も無い手で、石炭を鷲摑みにし、溢れるほどその中へ詰込んだ。手の掌(平)が黒くなるなどは厭って居られないと見える。
又一時間ほど経て松子は再び来た。気に掛かって成らないのだ。
『阿母さん、貴女が新聞紙をお焼き成さったのは、もう悪いとは云いませんが、その新聞に何の様な、焼き捨てなければ成らない事が出て居ました。何か貴女のお身に係る様な事柄ですか。私は心配で成りませんから、何うかそれだけお聞かせ下さい。』
死んでも我が娘に対し、新聞紙を焼いたとは云われない。それに先刻、散々に子爵を慰めた所をも見られているのだから、白状しては余りに母たる威信に関する。
『アレ未だ私を疑って、五月蠅いでは無いか。』
と、思い切って叱り附けた。
松子も三度は問はなかった。
併し新聞紙を焼いた為に、本当の事実も消えただろうか。
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