巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

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      椿説 花あやめ     

作者 バアサ・エム・クレイ女史 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳

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      椿説 花あやめ     黒岩涙香 訳

          五 あの画狂人ですか  

 若し人の神経が、遠く離れた他の人の心に通じる者なら、梅子松子と云う二人の娘は、今何の様な気持ちがして居るだろう。此の様に噂(うわさ)されて、何の感じも無く、何事も知らずに居るだろうか。

 確かに二人の頭の上に、運の神が舞って居るのである。英国にさえ多くは無い、大の金持ち、大の旧家、大の名誉ある家柄を相続すると云う得難い仕合せが、何方の頭の上へ留(とま)ろうか、今正に迷って居るのである。

 何と無く頭が痒(こそばかゆ)くは無かろうか。そうしてその運は多く何方(どちら)へ向いて居るだろう。梅子にか松子にか。今は未だ神より外に知る者は無い。

 葉井田夫人は直ぐに言い直した。
 『イヤ、子爵、何方の名が好きだの嫌いだのと、吾々の好き嫌いに任せて選り定めては、大変ですよ。好き嫌いと云う事は一切忘れ、只だ一意(ひたすら)に何方が相続人として、当家の永久の為になるかと云う事ばかり考えて決せねば。』

 流石に弁別(わきまえ)の深い夫人の言葉である。
 子爵『そうとも。』
 子爵は更に補って、
 『それに又、顔や綺倆を見て判断しては成りません。唯だその心栄えを見なければ。』
 夫人『そうです。』
 瓜首『そうです。』

 益々話が熟するばかりである。ここに至って瓜首は又も自分の意見を持ち出して、
 『ではこうするのが好かろうと思います。先ず子爵が何か用事に仮託(かこつ)けて、両女の住んで居る土地へ旅行し、その家を尋ねて親交を結び、そうしてお帰り成さるのです。

 帰ったら更に葉井田夫人から、両女へ招待状を出し、期限を定めずに逗留させると云う事にして、此の家へ招くのです。招いて逗留させて置くうちには、梅子が好いか松子が好いか、誰の目にも分かりましょう。』

 子爵『成るほどそうだ。遠いとは云え、血筋だから私が尋ねて行くのに不思議は有りません。余り互いに疎遠になり、気が済まない様に思うから、序(ついで)ながら立ち寄ったと云えば、それで好い。』

 夫人『では貴方が親交を結んで帰って来れば、それからが私の役目が始まるのですね。』
 瓜首『そうです。そうです。ですが相続人を選定する為と云う様な素振りは、何人に対しても、億尾(おくび)にも見せては成りません。』

 子爵『そう、そう、その事は愈々(いよいよ)何方と選定が決してしまうまでは、吾々三人の秘密として伏せて置こう。』
 全く相談は決まってしまった。こうなると今まで唯だ落胆の為め、日に日に衰えるのみで有った子爵も、少し心が元気になって、間も無く旅が出来ると云う程になり、又旅が仕て見たいと云う気にも成った。

 更に綿密に瓜首と葉井田夫人に打合せた上、従者一人を引き連れて、先ず梅子の父が住んで居ると云うノスヒルドへ向けて立った。頃は太郎次郎の水死してから三月半を経た、十月の初めである。

 ノスヒルドは英国南海岸の小都会で、交通が便利な為、追々開け立派な町会所も有り、工場も地方政庁も有る。只だ此の頃の子爵に取っては、海の際と云う事が一つの気掛かりで、海の色を心に思う丈ですら、直ぐに二人の子の不幸を思い出す。神経を掻き乱される様な気がする。

 若し実際に浪の打つ様子、舟の動く様子を見、又海の咆(ほ)える音でも聞けば、身を支えて居る事が出来ようかと、自分ながら危ぶまれるけれど、之を先にして、次に松子の住むと云う倫敦へ立ち寄れば、そこで幾等か気も紛れ、心も休まるだろうと、故(わざ)と厭な土地を先きにしたのだ。

 併し、やがてその土地へ着いて見ると、海際は海際だけれど、随分(ずいぶん)縦横ともに広い市区で、海を見ずにも居る事が出来る。思ったよりは安心と、成る丈け浪の聞こえない、山手旅館と云う宿を取り、画家春川春堂の住居は何所かと聞き合わせて見る。

 アアあの画狂人ですかと誰も合点する程で、容易に分かった。山手旅館から小さい谷一つ通り過ぎ、森を通ってその先の、小高い丘の中腹に在る一軒家がそれだと云う事。

 着いた翌日の昼過ぎ、子爵は従者を連れずに、その住居を尋ねて行った。もう路の傍に秋草の花も咲いて居て、面白い景色であるが、景色には目が行かない。間も無く丘の中腹に到ると、鬱陶しい程に立ち籠めた老樹の間に、古い屋敷が有る。

 昔は随分立派でも有っただろう。中々広い構えに見えるが、何分にも主人が余ほど手入れをしない人と見え、それとも手入れする事が出来ない境遇に居る者か、草や落ち葉やが重なり合って、人の行く手を鎖(とざ)して居る。

 風流と云えば風流かも知れないが、余り気持ち好くは思われない。併し却って此様な家に、浮世の汚(けが)れに染まらぬ清い少女が住んで居るのかも知れないと思い、少しの間、門の外に立ったまま目を瞑(つぶ)って心に祈った。

 何うか蔵戸家の女主人として恥ずかしくない淑女に逢う様に、何うか此の大切な選り定めに、我が判断を誤らない様にと、我が来た務めの弥(いや)が上にも重い事を胸に刻み。そうして入って行って玄関に訪れた。

 『誰れ』と答えて戸を開いたのは、何十年の間此の家に奉公して居るだろうと怪しまれる老婆である。
子爵は物静かに、
 『主人は御在宅か。』
 老婆『何時だって、内に居ない事は有りませんワ。お前様、古い絵でも売りに来さしったか。』

 此のむくつけき老婆の手で梅子は育て上げられたのだろうかと思うと、可愛想でも有るが、又失望でも有る。決して蔵戸子爵家を相続する姫君を、育て上げる資格の有る婆やでは無い。子爵は単に名刺を出し、

 『お目に掛かり度いから、之を取り次いでください。』
と云って渡した名刺の表に在る名前は、何の様な片田舎にも知らない人が有ろうとは思はれない程なのに、況(ま)して遠くとも、縁に繋がる家の主人が知ったならば、逢わない筈は猶更(なおさら)無い。

 老婆は受け取って、眉を顰(ひそ)めて、その表を見たが、肩書の子爵と云うのに驚いた。と云って丁寧に成れる言葉付では無いが、丁寧の積もりだろう、聊(いささ)か言葉の稜(かど)を減らして、

 『先ア応接の間に上がって待って居さっしゃい。』
と云って、毀(こわ)れ掛けた椅子が、唯だ二脚ある、広い広い部屋へ通し、そうしてその身は、
 『アア、珍しい絵でも持って来た人で無ければ、取り次いでも駄目だろうよ。』
と呟きつつ退いた。
 実に子爵の身に取っては、此の様な無造作な待遇は初めてである。



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