巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

hanaayame52

         椿説 花あやめ  
   

作者 バアサ・エム・クレイ女史 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳

since 2022.8. 25

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           五十二 此人は誰れ

 真に子爵は、太郎次郎のうち、一人でも活きて居れば、其の嬉しさに死んでも構わないだろう。
 葉井田夫人は云った。
 『貴方はお構い成さらなくても、私共は構います。息子が一人生きて居て、主人が一人亡くなったならば、差し引き却(かえ)って損ですもの。』
と云って打ち笑い、更に、

 『死んでも構わないと仰有らずに、決して死なない、決して驚かないと、お受合い成さる事は出来ませんか。』

 夫人の言葉は妙に根強い。妙に様子の有りそうに聞こえる所が有る。
 子爵は怪しみながらも熱心に、
 『其れは受け合う事が出来ますとも。無論できます。息子が生きて居ると聞いて、驚いて死ぬ奴が何所に有りましょう。』
とは云う者の、何だか心が騒いで来る。

 夫人『其れならば申しますが、実は。』
 子爵『エ、エ、実は。』
 夫人『ソレ、其の様にお驚き成さるのでは有りませんか。実に一人生きて居るかも知れませんよ。』
子爵は合点が行った様に、

 『夫人、夫人、其の様な冗談は止して下さい。息子が生きて居るのは、病気に障(さわ)りませんが、冗談こそ命にも障ります。』
 瓜首は最早や時分は好しと見て、
 『子爵、冗談では有りません、次郎様の方が全く生きて居られます。』

 子爵『本当に、本当ですか。次郎でも太郎でも、生きて居れば私は一時に病気が治ってしまいます。』
 未だ冗談としか思う事が出来ない。夫人は瓜首に目配せして、
 『ではここへ連れてお出で下さい。』
と云った。瓜首は心得て立ち上がった。

 冗談ならば斯(こ)うまで念を入れる筈が無い。子爵は初めて真実に驚いた。
 『エ、夫人、エ、瓜首さん、本当に次郎が生きて居るのですか。』
と瓜首の後を追って立とうとした。夫人は直ぐに引き留めて、

 『ソレ其の様にお驚き成さるのが恐(こわ)いから、私し共が心配したのです。何うか先ず落ち着いてお座り下さい。落ち着いて、落ち着いて。』
 子爵『本当ならば本当と、初めから云って呉れれば、何も驚きはしないのです。冗談が出し抜けに誠と為っては、誰であっても驚きます。』
とは不思議な言い分だ。

 冗談の前置きが有ったればこそ、是くらいの驚き方で済んでいるのだ。夫人は確(しか)と子爵の手を捕らえ、自分が瓜首から聞いた丈の事を残らず述べた。子爵は聞き終わると共に、
 『アア有難い、有難い。天に感謝しなければ成りません。』
と云って泣いた。

 斯(か)かる所へ、余ほど緩(ゆっく)りとして、瓜首は次郎を連れて来た。彼は病み耄(ほうけ)て居るけれど、嬉しそうに笑み、
 『到頭家へ帰りました。』
と云った。此の声を聞き、此の姿を見て、お驚き成さるなと呉々(くれぐれ)の注意を受けた子爵よりも、注意を与えた葉井田夫人の方が驚いた。

 『アレ、何うしよう。本当に次郎だよ。』
と夫人は叫び、殆ど気絶したかと思う許かりに椅子に沈んだ。
 子爵の方は、
 『アア、夢だ』
と云ったけれど、直ぐに次郎を抱き寄せて、

 『オオ好く生きて居て呉(く)れた。好く帰って呉れた。きっと艱難辛苦した事だろう。次郎、次郎。』
と涙一ぱいの眼で、其の顔を見て又見直し、殆ど果てしが無い様に見えた。やがて夫人が起き直り、之も、

 『オオ次郎、次郎』
と云い、
 『貴方ばかり爾(そ)う眺めずに、私へも次郎をお貸し下さい。』
と云い、手を差し延べて彼を引き寄せ、

 『本当に好く帰って呉れた。』
と同じ様な事を云って、唯だ一同が果てしも無い喜びの団塊(かたまり)とは成ってしまった。
 けれど喜びの落ち着くに従って、目に附くのは次郎の衰えた顔色である。

 確かに彼は深い病気を持って帰った。イヤ猶(ま)だ全く病人である。
 夫人『貴方は先(ま)ア、何れほどか艱難した事だろう。未だ病気が治らないのに。』
 次郎は心配を掛けまいと、強いて様子を引き立てて居る。

 『ナニ大した事は無いのですけれど、海の中で頭でも打ったか、時々脳の心へ、痛みが差し込みます。其の時には眠らずに居られませんが、眠れば直ぐに治ります。』

 軽そうには云うけれど、何うも軽くは無いらしい。言葉にも様子にも、少しも元気な所が無い。昔の生き生きした次郎に比べると、次郎では無い。次郎の抜け殻である。次郎の影ばかりである。

 或いは海から助かって、我が家へ死に来たのでは有るまいかと、先刻瓜首の疑がった様な疑いが、一様に夫人と子爵の心に起こった。

 子爵『先ず家へ帰ったのだから、一生懸命に養生しなければ。』
 次郎『ナニ大丈夫ですよ、阿父(おとう)さん、私は家へ帰って天国へ着いた様に思います。馬車の中では、事に由ると数時間の中に、息を引き取るのかと思いましたが、門の外へ来ると天使の様な美人が居まして、本当に天国の入り口の様に見え、心が軽くなりました。』

 子爵『天使、天使、何の事だ其れは。』
 夫人『アア梅子が門の外に遊んで居たのでしょう。』
 次郎『爾(そう)です。其の梅子です。』
 子爵『梅子と云い、松子と云い、家には美しいお客が有って、其方が居た頃より此の頃では、却って賑やかになって居る。色々気の紛れて面白い事も有るだろうから、其の方が自分で病気を直す気で居れば直ぐに直る。』

 梅子松子と云う事は、葉井田夫人の心へ、妙な心配を起こさせた。夫人は子爵の顔を見て、
 『ですが子爵、アノ両女を何うしたら好いのでしょう。』
 成るほど是れも容易で無い問題である。真の相続人が帰って見れば、彼の両女を何う処分すれば好いだろう。

 子爵は。
 『孰れにしても、其の処分は今までの処分よりはし易いでしょう。』
と云い、更に何の事かと怪しむ次郎に向かい、相続の一条から、梅子松子を迎えてある次第を、掻い摘んで物語った。次郎は聞き終わって、

 『爾(そう)ですか、其れでは両女とも悪い奴が出て来たと邪魔の様に思うでしょうねえ。』
 葉井田夫人が直ぐに打ち消し、
 『ナニ両女(ふたり)とも、其の様な卑劣な心は毛ほども無い。必ず其方の帰ったのを喜びますよ。殊に梅子などは其方の肖像画へ草花を備えなどして、自分の兄の供養でもする様に勉めて居ました。』

 次郎『エ、あの梅子さんと云うのが、私しの肖像画へ、草花を備えて下すった。』
 夫人『爾(そう)さ、だから全く自分の兄でも帰って来た様に喜びますよ。』

 次郎は聞いて嬉しそうで有ったけれど、其れは少しの間で、直ぐに又、
 『アア頭が痛く成りました。少し私をここへ寝かせてください。』
と云い出した。勿論直ぐに其の意に従った。爾(そう)して彼が眠るや否や、子爵は、
   
 『医者を迎えて置こう。』
と云ってここを立ち、瓜首は次郎の帰宅を披露する事に就き、子爵へ相談する事が有ると云って、続いて去り、独り葉井田夫人のみ、嬉しさと心配と混雑(まざっ)た様な面持ちで次郎の寝顔を守って居たが、凡そ三十分ほども経て、何か次郎の目の覚めた時の飲料(飲物)をでも用意して置こうと思い、之も立った。

 斯(こ)うして一同が去り、部屋の中には唯だ眠った次郎一人と為った所へ、誰だか爾(そう)とも知らずして、静かに入って来た人が有る。多分は子爵がここに居る事と思い、用事でも有って子爵を尋ねて来たのだろう。

 此人は誰れ、草村夫人、其れとも梅子。



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