巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

hanaayame55

         椿説 花あやめ  
   

作者 バアサ・エム・クレイ女史 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳

since 2022.8. 28

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           五十五 夜叉の顔

 無事に次郎が帰った事は、直ぐに噂が広がった。誰が何う伝えたか知らないけれど、近郷近村から、歓(よろこ)びに来る者が引きも切らぬ。此の夜当、家の晩餐のテーブルに列なった者が、常よりは十余人も多かった。勿論孰(いず)れも次郎の友人である。爾(そう)で無くとも、次郎の懇意にした人達である。

 次郎は子爵と葉井田夫人との注意に依り、食堂には出なかった。子爵の居間へ食事を取り寄せて、之を済ませ、爾(そう)して凡そ一時間を経て、客室へ出たが、待ち受けて居た一同は我れ先にと彼の手を握り、無論熱心な喜びを述べた。

 次郎自らは、病気を忘れるほどに嬉しがったけれど、その中に独り次郎を面白く思わぬ人が有った。それは松子の母草村夫人である。実はナニ、次郎が此の夫人を喜ばないのでは無い。此の夫人が次郎を喜ばぬのだ。

 夫人の述べた祝辞は祝辞で無くて、殆ど詰問の様で有った。
 『何だって貴方は、御自分の助かった事を、早く父上へ知らさなかったのです。郵便も電信も有る世の中に。』
と云い、

 『貴方がそれをお知らせ下さらなかった為に、何れほどの混乱を引き起こしたか、分かりません。』
と云い、果ては、
 『貴方は人に迷惑を掛けました。』
と云う様に聞こえる言葉をさえ吐いた。

 けれど此の夜は無事に終わった。次郎と旧友との間は勿論、次郎と弓澤民雄との間にも、深い親しみの心が起こった。取り分けて松子も一方ならず次郎を喜ばせた。次郎は松子と梅子とを見較べて、何うして斯(こ)うも我が親類に、美しい令嬢が揃って居るかと怪しんだ。

 けれど、見比べた末の結論が、松子は敬うべしだ。梅子は愛すべしだと云うに帰した。爾(そう)してその『愛すべし』と云う度合いは、その『敬うべし』と云う度合いより十倍も二十倍も深かった。暇さへ有れば『愛すべし』の傍へ寄る様に見受けられた。

 けれど、余り疲労させては宜しく無いとの、子爵からの注意で、葉井田夫人が状況を見て、次郎を寝室へ退かせた。次郎自身もその時、最早や耐え難くなったと見え、蹌踉(よろめ)く程の有様で退いた。

 その後で、子爵は瓜首に細語(ささや)いた。
 『何うも草村夫人が酷(ひど)く次郎の帰ったのを、不快に感じて居られる様だが、何とかしなければ成らないだろう。』
と。瓜首は頭を振りつつ、

 『私も爾(そ)う思います。是は貴方が御自身で、明日にも何とか慰めてお上げ成さるのが宜しいでしょう。』
 子爵『唯だ慰めの言葉だけでは、慰めに成るまいから、何とか慰めの実が現れる様な方法を、貴方に考えて戴きましょう。』

 子爵が思い遣りの深いのは、今に始まった事では無い。瓜首は無論畏(かしこ)まって退いた。
  *      *      *      *      *
      *      *      *      *
 此の夜、一家が寝静まった後である。此の家の二階から、忍び足で広い階段を下った一人がある。宛(あたか)も幽霊の歩む様に、何の物音もさせず、徐々(そろそろ)と廊下を徘徊(さまよ)うのは誰だろう。何所へ行く積りだろう。

 やがて此の人は、図書室の前へ行った。爾(そう)して静かに戸を開けて中に入った。暫(しばら)くすると、書棚の前で、マッチを擦った。さてはマッチの光で何かの書物を捜すのだと見える。けれど書物よりも先に、その光りがパッと照らしたのは、その人自身の顔である。

 見れば眼の釣り上がった物凄い女の顔、取り分けマッチの青い燐火に照らされて、此の世の人では無い様に見える。話聞く夜叉の顔は此の様な者だろうか。イヤ夜叉の様だけれど、良く見ると草村夫人である。

 夫人は何の本だか一冊を捜し出した。爾(そう)してソッと又ここを忍び出ようとした。勿論誰も知らない筈であるのに、ここへ通り合わせた人がある。それは葉井田夫人なんだ。

 夫人は次郎の部屋に今まで付き添って、彼の寝息が全く平かになり、もう朝までは大丈夫だろうとの見込みが附いてから、自分の部屋へ退く積りで廊下へ出たが、遥かに図書室の方に当たり、何やら火の光が、硝子戸越しに見えた様に思ったから、直ぐに次郎の部屋から手燭(てしょく)を取って、ここへ廻って来たのだ。

 爾(そう)して丁度書斎から出る草村夫人と行き会った。
 『オヤ貴女でしたか。』
と云えば、
 『ハイ何だか今夜は寝苦しく思いますので、小説でもと思い、ここへ捜しに来たのです。』

 立派な言い開きで有る。唯だ是だけなら何も怪しまれずに済んだだろううが、言葉と共にその手に持って居た一冊を脇に隠した。隠す丈何だか怪しい。併し怪しむと云う程の事も無く、葉井田夫人は分かれた。
 
 翌日葉井田夫人は、草村夫人の部屋に行ったが、夫人は居ないで机の上に本が有る。その表題を見て、葉井田夫人はゾッとした。
 『プリンビラー侯爵夫人伝』
とある。此の伝記が何故に爾(そ)う恐ろしいかは、云うまでもも無い。此の書の主人公である侯爵夫人は、仏国の有名な毒薬行使者である。

 此の夫人の名は、秘密毒殺と云う事と同じ様に思われて居る。凡そ貴婦人社会に、此の書を平気で読む様な大胆な人は無い。読めば秘密に毒薬を用いる手段が、良く分かるのだ。唯だ名高い本である為に、図書室へ揃えては有る者の、之を好んで読む人が此の家の客に有ろうとは思われない。

 夫人が驚いて立ち去ろうとする所へ、丁度昨夜とは反対で、草村夫人の方が、戸口へ来た。両夫人は顔と顔とを見合わせた。爾(そう)して意味有るが如く無きが如く、互いに笑った。
 『オホホ』
 『オホホ』



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