巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

hanaayame57

         椿説 花あやめ  
   

作者 バアサ・エム・クレイ女史 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳

since 2022.8. 30

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             五十七 大団円

 草村夫人が次郎の病室へ来る事に成ったのを、葉井田夫人は穏やかならない様に感じた。真逆(まさ)か悪い心が有ってでは無いだろうけれど、彼の恐ろしい本の事など考えて見ると、何だか油断が出来ない様な気がする。それに又次郎自身が、酷(ひど)く草村夫人を厭(いや)がる様子がある。

 何うしても夫人の来るのを、断わらなければ成らないと思い、子爵に相談した上、病室へ入る人の数を限った。梅子と松子と葉井田夫人の三人と云う事に、爾(そう)して子爵の命令を以て之を励行した。

 更に葉井田夫人は、念の為と思い、密かに図書室へ行き、毒薬などに関する書籍をば、その書目と引き合わせて見た。先日の本の外に、更に一冊不足して居る。それは毒薬の種類を説明した本である。

 益々以て怪しいと認めなければ成らない。もう何の様な事が有っても、油断は一寸も仕手は成らないと、夫人は心の底で堅く思い定めた。
 併(しか)し、葉井田夫人の此の真心が届いたと云う者か、次郎は悪い時よりも善い時の方が幾等か多く成った。

 それに又、梅子の骨折りが並大抵で無かった。全く親身の兄をでも介抱する様に介抱した。先に子爵が、
 『若し次郎に命があるなら、それを繋(つな)ぐのは、貴女の手です。』
と云った通り、梅子の顔だけでも言葉だけでも、薬よりは効能が有った様である。

 梅子が傍に居れば次郎は機嫌が好く、梅子が離れると容態が重くなると云う程であった。斯様(このよう)な次第だから、何人も至極尤(もっと)もと思うで有ろう。次郎は遂に葉井田夫人に向かい、何うか梅子を我が妻と云う事に、承知させて下さいと言い出した。許嫁の約束さえ出来れば、それを力に、自分で病気を退治しますと迄に云った。

 容易ならない事だとは思ったけれど、此の請いを退ければ、何の様な事に成るかも知れないから、先ず子爵へ相談すると、子爵は涙を零(こぼ)して喜び、梅子の様な嫁は又と得られないから、当人が承知なら、何うかその様に計らって下さいと云い、更に梅子へ相談すると、嬉しそうに顔を赤めた。

 爾(そう)して云った。
 『私は父にも、子爵にも、貴女にも、松子さんにも、ご異存が無ければ、皆様のお指図に従います。』
と。之が為に梅子の父の許へも使いを出したが、父も異存が無かった。又松子なども非常に喜んだ。

 独り喜ばないのは、草村夫人だろうけれど、勿論異存を云う権利は無い。それに子爵が、此の事が極まる共に、直ぐに瓜首と相談して、夫人に少なからぬ年金を与える事にし、又松子へは、民雄と結婚する婚資として、蔵戸家の領地に隣なる、某貴族の別邸を買い取って、少なからぬ地面と共に贈る事にした。

 此の通りに、何も彼も取り運んで置いて、爾(そう)して、梅子と次郎とが許嫁に成った事を披露した。 
 聞く者誰一人喜ばない人は無い程で、特に次郎自身は、僅か数日の間に、めっきりと元気が附き、血色も回復した

 。唯だ併し、葉井田夫人は、まだ妙な恐れが心を襲い、此の披露の済んだ日に、又も図書室を調べて見たが、先に紛失した二個(ふたつ)の書は許へ復(かえ)って居る代わりに、
 『ウィルソン氏の毒薬談』
と云う書が、一冊無くなって居る。

 是れも有名な著述で、その記事の目的は、毒薬に対する解毒の心得を述べた者で有るけれど、毒を飲んで、毒を飲んだと分からない様な、毒薬の事などを詳しく記して有る。此の書の紛失は、前二書の紛失よりも、更に深い意味が有ると云っても好い。

 前二書では直ぐに素人が毒薬を作る事は難しいけれど、此の書を見れば、容易にそれが出来る。夫人は顔の色を変えたけれど、又何か思い定めた様子であった。

 此の翌日の夜で有った。誰も寝静まった刻限に、次郎の病室へそっと忍び寄った人がある。此の人は薬を置いたテーブルの陰に屈(かが)み、手だけ出してコップを取り、その中へ何やら水薬を滴(たら)し込もうとしたが、此の時、此の部屋には居ない筈の、葉井田夫人が次郎の寝台の陰から現れ、

 『曲者』
と叫んで取り押さえ様とした。曲者は一生懸命に逃げ出して、後から追う葉井田夫人より幾間《5mから10m》も離れて、爾(そう)して多分二階にある草村夫人の部屋へ、上って行くかと思ったら、爾(そう)では無くて、台所の方へ行き、下部(しもべ)などの登る、狭い険しい階段を上ろうとした。

 扨(さ)ては下部(しもべ)で有ったのかと、葉井田夫人は思った。勿論廊下の燈明(あかり)が暗いから、男か女かその姿の見分けは附かない。

 頓(やが)て曲者は階段を大方登り終わった頃、足を踏み外し、高い所から転げ落ちたのが、丁度今追って来た葉井田夫人の足許である。葉井田夫人はか弱い方だけれど、此の様な時には度胸がある。

 声も立てずに、直ぐに手燭(てしょく)を持って来て、良く見ると、曲者は気絶した或る人である。
 翌朝、家内の人々は妙な報知に驚いた。昨夜、夜更けて、草村夫人が、寝られないままに二階の廊下を散歩して居て、階段(はしごだん)から落ち、大怪我をしたとの事である。

 無論子爵は此の事を聞き、その部屋へ馳せ附けたが、成るほど大した怪我で、腰の骨が砕けて居る。殆ど身動きをする事も出来ない。
 此の身動きの出来ない人が、何うしてその怪我をした場所から、自分の部屋へ帰ったのか、誰も知らない。

 当人に聞くと、之も怪しみながらだけれど、その弁解が余ほど面白い。
 『私は寝られない時は、毎(いつ)も図書室へ行くのですが、昨夜もその積りで階段の所まで行き、転げ落ちたまでは知って居ますが、その後は少しも覚えません。多分気絶したまま夢中で此の部屋へ戻ったのでしょう。』
と云うのだ。

 腰の骨が砕けて、爾(そ)うして気絶した儘(まま)で、階段を上る例は余り無い。
 此の翌年の春である。蔵戸家の領地の教会で二組の婚礼が有った。一は弓澤民雄と草村松子、一は子爵蔵戸次郎と春川梅子。
 立ち会う人々は孰(いず)れも、此の二夫婦四人の嬉しそうな顔を見て、自分の喜びの如く喜んだ。

 是で一旦松子の物と極まって居た子爵夫人の栄冠は、梅子の者とは成った。併し松子の方は、此の栄冠よりも、夫民雄が日々名高くなるのを栄誉として居る。
 
 『私は何うしても此の家を立ち去りません。』
と頑張った草村夫人も、その身が不具と成った為め、立ち去るにも立ち去られず、到頭蔵戸家で飼殺しと云う事に成って、その目的を達したのは、先ず目出度い。
          
          

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