巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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      椿説 花あやめ     

作者 バアサ・エム・クレイ女史 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳

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      椿説 花あやめ     黒岩涙香 訳

          六 二度と来ぬ運の神  

 子爵は先づ、通された応接間と云う部屋の中を見廻したが、驚くべき事が二つある。一つはその部屋が唯だ広いのみで、少しも客を待遇(もてな)す道具立てが備わって居ない事である。毀(こわ)れた椅子が二脚ありこそすれ、殆ど荒屋(あばらや)の一間とも云うべきで、主人の有る家とは思われない。

 二つには壁一面に絵画が懸って居る事である。何所を見ても一寸の隙間も無い。そうしてその絵は、伊国(イタリヤ)、仏国(フランス)、西国(スペイン)などの、昔の有名な画家の作を写した者で、多分主人春堂の筆なんだろう。孰れも元の絵と見分け難い程に良く出来て居る。子爵は感嘆した。

 『成るほど真に画狂人(えきちがい)の家だ。画狂人と云われる丈けあって、全くの天才だ。此の様な人の娘なら、決して賤しい心は持たないであろう。下品では無いに違いない。』
と呟いた。

 それは扨(さ)て置き、子爵を応接の間に入れた彼の老女は、名刺を持ったまま退いたが、何うも「子爵」の肩書が合点が行かない。此の様な家(うち)へ子爵とも有る人が、来る筈が無い。何うした訳で有ろうと、考えに心を取られ足も進まず、幾度と無くその名刺を読み直して居たが、

 『アア分かった。昔し亡くなられた奥様の遠い親類だよ。蔵戸家と云う子爵が有ると、折々云われた事が有った。そうだ、何うか此の子爵の為に、当家の台所向きも、少し豊かに成って呉れれば好い。』

 合点するが否や足を早め、主人春堂の部屋の入り口に行った。襖(ふすま)の外から取継いでも、決して返事をしないのが、此の主人の常だから、無遠慮にその襖を引き開けて中に入り、
 『大変なお客様が見えましたよ。』
と耳の聞こえない人に話すほど、声高く云って、名刺を目の前に突き付けた。

 主人(あるじ)は絵絹に向かい、筆を持って夢中に海の上の空の色を眺めて居たが、チラと名札を見た丈で、また空に目をを注ぎ、
 『先ア、先ア、その様な事を云って呉れるな、あの雲の色が、ソレ、昔から誰も描く事が出来ない所だ。あの色、あの色。』
と口走るのは、真に天才の人が、天来のインスピレーションに触れて、大傑作を身ごもろうとする場合だろう。

 何を云ったとしても、意識に入る者で無い。老婆は無慈悲に、
 『その様な事は云って居られません。大切なお客ですよ。』 
 春堂は聞き分ける事が出来たのか、出来なかったのか分からないが、
 『では梅子を出して呉れ、梅子を。』

 老婆『世間を知らない嬢様に、何で此の様なお応接(あしらい)が出来ます者か。』
とは云え、幾等争っても無益だと知って居るから、仕方無く又その名刺を持ったままで、背後(うしろ)の部屋の窓に行き、若し手入れ行き届いて居るならば、裏庭とでも云う様な荒地の藪に向かい、

 『嬢様や、嬢様は居ないかね。』
と呼び立てた。声に応じて、
 『婆や、なに。』
と問い返す清い若々しい声が樹の陰から聞こえて、次に、摘み集めた草花を片手に高く持って現れた姿は、背(うしろ)の草叢(くさむら)を雲と見れば、確かに天女である。

 涼しい眼、花の蕾の様な唇などが、薄桃色に照り渡る頬の色と共に、人間の汚れを知らない清い婀娜(あどけな)い顔(かんばせ)を作って居る。之を若し子爵に見せたら何うであろう。仲々愛らしいとか美しいとか云う様な、有触れた言葉で言い現わせる様な姿では無い。

 忽(たちま)ちに太郎次郎の不幸をさえ忘れてしまうかも知れない。老婆は例の無造作な調子で、
 『何時まで貴女は小児(ねんねえ)です。着物の汚れるのも知らずに草花などを集めて居てさ。もう子爵や伯爵の前へも出なければ成らない年なのに。サア此の名刺を御覧なさい。』

 乙女は、
 『御免よ婆や』
と軽く云って名刺を受け取り、
 『之は何方(どなた)、何うしたの。』
と老婆の顔を見上げた。

 老婆『貴女は子爵蔵戸正因(まさより)と云う名を知りませんか。』
 乙女は思い出したのか、少し顔を赤らめた。
 『アア、阿母(おっか)様がお在世(いで)の頃に、好く遠い親類に、此の様な方が有るとは仰有ったが。』

 老婆『それですよ。それですよ。その方が今尋ねて来られて、応接の間に居られますよ。』
 乙女は、
 『あれ、何したら好かろう。』
と当惑気に四辺(あたり)を見て、更に、
 『阿父(おとう)様は。』

 老婆『云いましたけれど駄目ですよ。毎日(いつも)の通りで。』
 乙女『私がお目に掛からなければいけないの。』
と云いつつ座に上って来た。
 老婆『そうです。貴女がお目に掛からなければ。』
 乙女は名刺を又見直して、

 『でも私から、モ一度申して見よう。』
と云い、胡蝶の翻(ひるがえ)る様に、軽く急いで父春堂の部屋へ行った。が、結果は同じ事だ。春堂は未だ空の色に夢中で、
 『あの雲、あの雲、ハテ絵具は、絵具は。』
と相変わらずの囈言(うわごと)である。

 梅子『でも外の時と違いますからわ。阿父さま、遠い親類とか云う方が、故々(わざわざ)お出でだと云いますから。』
 春堂『和女(そなた)に頼んだ、頼んだ。』
 天地が覆(くつがえ)っても、絵絹の傍を離れ相も無い。

 梅子は仕方無く又老婆の許へ行き、
 『私がお目に掛かろうか。』
 老婆は物知り顔に、
 『嬢様、運の神は、誰の所へも一度は来ますが、二度は来ませんよ。来た時に取り逃がせば、帰って来ては呉れませんぞ。』

 梅子『その様な事を云っても、私には分からないもの。』
 老婆『好く何事にも、気をお付け成さいと申します事さ。』
 梅子は少しの飾りつけも経ぬ天真のままだから、別に気を付ける事と云っても知らないが、その代わり又生半可(なまはんか)に知恵の付いた都の令嬢達とは違い、羞(はに)かんで徒(いたずら)に逡巡(しりごみ)をしたり、人の爵位を敬い過ぎて、見すぼらしく戸惑ったりする事は無い。

 真に露出(むきだ)しの小児と云ってもよい。別に着物を着替えようでも無し、髪を撫で上げようでも無い。老婆の言葉を聞き流して、
 『笑われても構わないワ。』
との一語を口の中に残して、先刻から子爵の怪しんで待って居る、応接の間へと行った。



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