hanaayame7
椿説 花あやめ
作者 バアサ・エム・クレイ女史 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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椿説 花あやめ 黒岩涙香 訳
七 雪の中に咲く一輪
子爵は少し待ち兼ねて居た。もう主人が来さそうな者だ。画狂人と云われる程だから、きっと浮世の事には少しも構わない。垢染みた、髪も髭も蓬々(ぼうぼう)と生え茂った、云わば此の荒れ果てた屋敷の様な、手も付けられない相手では有るまいかと、怪しみも危ぶみもして居るうちに、静かに一方の戸が開いた。そうして誰だか入って来た。その姿は、アアその姿は夢では無いかと迄に、子爵は少しの間茫乎(ぼんやり)した。
之が梅子と云うのだろう。名は美しいけれど、形がこうまで愛らしかろうとは思はなかった。愛らしくて、品が有って、而も総体が何と無く清らかに見える所は、雪の中に咲く一輪の梅の花とも云うべしだ。取り分けその顔に、蔵戸家の血筋に特別な、一種の様子が備わって居る。
他の人にはそう見えないかも知れないけれど,子爵には確かに分かると云う様な気がする。自分の顔にもその特別な所が有る。太郎にも次郎にもそれが有った。取り分けて梅子は太郎に似て居る様に思われる。偶然では無く、或いは天が太郎の後に此の梅子をその位置に座らせる為に、此の様に生まれさせて置いたのだろうか。
梅子の外に更に松子と云う候補者の有る事は、少しの間、子爵の心から消えてしまった。若し瓜首の言葉を誠とすれば、松子は倫敦(ロンドン)で美人の誉れが高いと云うから、未だ、未だ、梅子を見たばかりで、そう心を傾けては成らないのに、その様な思慮も何にも無く、子爵の心は唯だ傾いた。
梅子の方へ溢(こぼ)れてしまうかと思われる程に傾いた。そうして茫然と梅子の顔に看取れる間に、梅子は三分の恐れ二分の恥ずかしさ、そうして五分の親しみを以て、子爵の前に近づいた。子爵は他人の様に思わない。我が子の様な気がして、改めて名乗るのも何だか不似合いだ。
ならば、
『オオ、娘か。』
と云って直ぐに膝へ抱き上げもして見たい程だ。是だけ心が、子の愛に餓えて居るのだ。けれど真逆(まさか)にそう馴れ馴れしくは出来ない。その様な事をすれば、子供の様な此の美人は、呆れて泣き出すかも知れない。漸(ようや)く子爵は気を取り直した。
『突然に尋ねて来ましたが、私は子爵蔵戸正因(まさより)です。貴女の母御とは遠い血続きでありました。』
と出来る丈優しい声で云った。
『ハイ阿母(おっか)さんから聞いた事を、今でも微かに覚えて居ます。』
と、子供らしく答える声は、鶯の初音よりも爽やかに子爵の耳に響いた。
子爵『少し用事が有って此の土地へ来ましたが、二三週間は逗留しなければ成るまいと思い、山手旅館へ宿を取って居ます。之を幸いに、貴女の父上とお近づきに成って置き度いと思いまして。」
と言い掛けて思い出した様に、
『イヤ貴女が春川梅子さんでしょうネ。』
問う言葉に、何と無く、娘に対する父の様な口調があって、梅子は恐れと恥ずかしさが一分づつ減って、親しさが七分に増した。
『ハイ私が梅子と云うのです。』
子爵『母上に一度もお目に掛からなかったのは、残念ですが、何うか父上には、御近付きに成り度いと思います。』
梅子は笑みを浮かべた。何故の笑みか分からないけれど、子爵は胸の支(つか)えも解けてしまう様に感じた。
梅子『ホホホ、今日は天使様がお出で成さっても、お目には掛かりませんよ。』
子爵『エ、何と、若しや御病気でも。』
梅子『ハイ病気よりも酷(ひど)いのです。自分の書く絵に夢中成って、丁度熱に浮かされた様な者です。誰が何を云っても、うわの空です。』
云い終わって又笑った。もう余ほど子爵に打ち解けた。是が争うべらざる血筋の力では有るまいか。
子爵『天才の人は皆その様な者です。』
梅子『でも、花や景色や、美しい物が沢山有りますのに、何で絵ばかりを美しいと思い、本当の美しい者を忘れるのでしょう。』
その姿に似合わしく、天然の美を愛する心の発達して居る事も是れで分かる。余ほど悟りの良い霊智を備えた少女だと子爵は見て取った。
けれどこう一通りの挨拶が終わっては、この様な年頃の、而も初対面の女に、何の様な事を話せば好いかと、少し子爵は当惑したが、良(やや)あって、
『大層此の屋敷は広いですネ。絵にでも書き度い様に出来て居ます。』
梅子は少しだけれど顔を赤らめた。流石女だけに、此の家の荒れ果てた様子や、又取り分けて客を待遇(持て成)す道具立ての揃って居ないのを、極まり悪く思ったと見える。
『阿母さんが在世(おいで)の頃は、綺麗に手が行き届き、人も立派だと云って呉れましたけれど、余り阿父(おとう)様が構わない者ですから。それに一切の品を皆絵に替えてしまいまして、今では、絵より外の品は何にも有りません。壁でも廊下でも、残らず絵に塞(ふさ)がって居るのです。』
子爵『イヤ絵画は仲々貴重な者です。』
梅子『そうでしょうか。私はそう思いません。それに孰れも昔の写しですもの。父の自分で作ったのは、大切でも有りましょうが、それは少ないのです。』
子爵『傑作は一代に一枚か二枚しか出来ないとした者です。』
と云って言葉を合わせた。
梅子『床の間には父のものも、幾枚かは有りますが、お目に掛けましょうか。』
早や幾分か友達の様な口調も見えて、子爵は益々心が解けて、
『ハイ見せて頂きましょう。』
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